日々の糧と法話

  このページは老僧の私が少しでもみなさんに仏さまの教えに親しんで頂きたいと作って居るもの物です。

 なむあみだぶつの教えを詳しく知りたいお方は真宗の各ご本山も法話を出して居られますし

 真宗各派のご本山十派が真宗教団連合を作っておられます。各ご本山に属したお寺が


 全国に沢山有りますので、是非詳しいお話をお聞きください。


          お寺の場所が分からない場合はお調べもさせて頂きます。


         それでは今日も日々の糧と法話を読んで頂きます。

 ◎ 今日の一日は 二度とやり直しがきかない一日です。

 ◎ 昨日の事が気になる
 明日の事が気になる今な私はどうですか。

 ◎ 太陽や大地や水の恵みを受けてお米や魚の命を頂き生かされて生きている私。

 ◎ 思いをこえたものを 思い通りにしようと思うから この世の中が地獄になる。

 ◎ 仏さまが 手を差し向けて下さっているのに背を向けている私。

 ◎ お陰様で生かされて生きている 見えない「かげ」の力で。

 ◎ 人間のいのちに輝きあれ 人の世にいのちのkが焼きあれ。

 ◎ 本当の自分に出会えない 人生はむなしいです。

 ◎ 愚痴が出た時 腹が立った時 悩みが解決できな時その元を聞いてみる。

 ◎ 人間の命に輝きあれ 人の世に 命にぬくもりあれ。


    



  一口法話  平生業成 (へいぜいごうじょう)

          じゃによって 常が大事ぞ 年の暮れ

 お正月や、お正月やと言うている間に花の春が来て、桃や桜や言うている間に梅雨

 梅雨が明けるともうそこに暑い暑い夏が待っている。

 やれお盆や地蔵盆や屋と言うている間に秋が来て、紅葉を見に行く間もありませんわ、と

 言うている間に木枯らしが吹いて年の暮れが来る。

 その時になって今年はなにも出来なんだ、何とか正月までには間に合わさなければと慌てふためく。

 これが私達の毎年送る年中行事のように思われます。

  じゃによって 常が大事ぞ 年の暮れ

 この川柳は誰がつくられた物か知りませんが、実に私達に平常の心がけを教えてくれている川柳です。



 日々めさきのことにのみ目がくらんで、肝心な物大事なことを忘れている私達。

 年の暮れになって慌てている私に”年の暮れになって慌ててもあきまへん。

 そやさかいに。、平生が大事でっせ”と教えてくれている。


 私達は命の終わる瀬戸際になって地獄行きか、極楽行きかと慌てふためく事の無いように

 平常に仏さまのみ教えを聞かせて頂き、常に仏さまの大きなお慈悲の心が、

 私にふりそそいで下さっているのだと、仏さまのおまもりを信じお念仏を喜ばせて頂く時

 いついかなる時でも『命終わる時 彼の土(阿弥陀様のお国浄土)へは参るべきなり』(歎異抄)と

 安心させて頂けるのです。

 じゃによって常が大事ぞ年の暮れ

 平生業成(平生業場)のみ教えを仰ぐ私たちの味合う言葉です



                                      
                                        





 ◎ いのちほど大切なものはないと言いながら 今日もその命を頂いて居る。合掌して「頂きます」


 ◎ 善事と知りつつ成し難く 悪事と知りつつ避け難い。


 ◎ 「私はウソをついたことが無い」のセリフで 嘘つき大会で優勝したと言う話。


 ◎ 自称善人が消えてくれると 悪人だって消えるかも。


 ◎ 自分流の物差しで計算したものに 本当の答えは出てきません。


 ◎ 念仏者の往生は永眠や他界するのではなくて アミダさまのお浄土に往き仏と成るのです。


 ◎ 人生は横断歩道の様に鵜危険一杯ですが、 信号に従えば安心して歩けます。


 ◎ 一緒に泣いてくれる人が有れば 救われます。


 ◎ 南無阿弥陀仏は煩悩具足の凡夫を 無条件で救て下さる如来さまです。


 ◎ 水・空気・星や太陽の輝く世界 人間だけのものでは無いはずです。


  
    一口法話 苦 楽 (くらく)

 一水四見と言うたとえが有ります。。

 今、水が有るとして、ガキはこれを火と見ます。

 魚はこれを自分の住と見、人間はこれを水と見る。仏さまは、これを
瑠璃(るり)と見る

 というのです。

 同じ一つの対象も、見るものの心によって、違ったものに見えると言う事であります。

 このごろは流行りませんが、清貧と言う言葉が有ります。

 清貧を楽しむ、貧乏という一つの状況に置かれた場合とみる、

、貧乏は苦と見る人は多いでショウガ、貧乏なななkにも楽しく暮らしt5営る人もいるはずです。

 数億の富を抱いている人の家庭でもは門の絶えまの無い場合も有るでしょうし、

 今夜の糧に汗して働く人々にも家族が一つ心で笑い声のあふれる家庭も有るのです。

 このように、境遇なり外にあふれた除隊そのものが、そのまま人間にとって苦しみとか

 楽しみであると決めてしまわずに、むしろ、境遇をうけとるこころによって、

 その人の幸不幸、九楽が決定する物だと言う事実に気づかねばなりません。

 仏教ではオレがと言う、とらわれの心(執着)苦を招く原因であると教えて居ります。

                                   
   



 ◎ 救いの中に有る限り 希望はあっても絶望はない。

 ◎ 現在が救われると 過去も未来も救われる。

 ◎ 鬼は 世間ではなく自分の中にある。

 ◎ 穏やかな笑顔と優しくて暖かい言葉。

 ◎ 明るい町づくりは 先ず挨拶から

 ◎  アスハ。有難う。すみません。ハイは人の心を暖かくするし自分も気持ちが良い。

 ◎ この人といると 気持ちが暖かくなると言われるような人になりたいなぁ。

 ◎ 言うた人は忘れて居ても 言われた人は覚えている 良い事も悪い事も。

 ◎ した人は忘れて居ても された人は覚えている 良い事も悪い事も。

 ◎ たった一言が人の心を暖かくする。たった一言が人の心を暖かくする。



   ひとくち法話

              人 生 の 羅 針 盤

 皆さんのお家にお仏壇が有りますか?仏壇の無い家庭は空き家と一緒だと言われています。

 それは主人が居らない。私たちは主人と言いますと、家庭の主人はお父さんと考えて居ますが、

 仏教では、主人は仏さまだと言ってます。

 仏さまが家の主であります。

 ですから、生活の中に仏壇が無いと言う事はそれでは本当の生活が出来ない。

 仏さまと言う主を中心にして生活をする。

 私たちの生活の中には悲しい事も有り、また嬉しい事もあります。

 仏教では「人生は苦なり」と申しますが、思うようにいかないと言う事も娑婆の世界です。

 そこで、私の心のよりどころ、そのより所を仏壇に求めます。

 仏壇は決して先祖を祭るのではありません。

 最近の人は仏壇と言うとご先祖を祭っておるのだと考えて居ますが、

 仏壇は先祖では有りません。お仏壇は南無阿弥陀仏なのです。

 南無阿弥陀仏と言う事は、私達を本当に生かして下さることを言うのです。

 生きるより所を与え死の帰する所を明らかにすると言う事が仏さまであります。

 そのほとけさまを、家の中心にご安置するということは、考えてみますと、主が定まると言う事です。

 その主は私達の家庭の中心であり、そして、私m達の生活を色々と方向付けて下さいます。

 船に羅針盤が有りますが、その羅針盤が無かったら方向は定まりません。

 仏壇と言う人生の羅針盤が私達の生活の中に有ると言う事はまことに幸せな事で有ります。

 困った時は仏さまと相談しながら生活をすると言う事が最も大切な事であります。

 仏壇は無くなった人を祭るのではなくて、亡くなった人をしのばせて頂くときに亡くなった人を活かす。


 そういう仏に私達は今遭わせていただくのであります。


 仏壇は家庭の中心で有ることを忘れてはなりません。

 
           大阪北御堂編ー真宗三分間法話 
聞こえますかより







    

                           


 ◎ 十人子を養う父が有る一人の父を養い得ない十人子もある  法句

 ◎ 浜までは 海女も蓑着る 時雨かな  瓢水

 ◎ 有り難い・勿体ない・済まないと言う事を忘れている人は一番不幸です。

 ◎ 人の悪い所はよく見えるが、自分の悪い所は気が付かない。

 ◎ 満足を知らないものは、如何に富に恵まれていても心は貧しい。

 ◎ 真実の信を得る人は心に喜びが多い。

 ◎ 亡くなった人が迷うと言っていると言うあなたの心が迷っているのです。

 ◎ 浄土は言葉の要らぬ世界・人間の世界は言葉の必要な世界・地獄は言葉の通じない世界

 ◎ 念仏して五欲の暑さ忘れよう。

 ◎ 浄土を願う人は浄土を作る人です。

 ◎ 誰にでも似たような悩みがある。誰にでも隠された涙が有る。


     そこにかみしめられる人生の味 ひそかなる仏さまの声。          


      一口法話 
馬の耳念仏


 念仏とはもちろん「南無阿弥陀仏」なむあみだぶつです。有り難いお念仏であっても馬に聞かせても有り難さは分からない。


 それと同じでこちらがいくら忠告しても相手がそれを聞き流してしまってなんのききめのないときにこの「馬の耳に念仏」という・


 浄土真宗のご開山親鸞聖人はお念仏は私達が自分の自由意思でもって称えるものではない。


 念仏を唱えたいから称える、称えたくないから称えないと言うのでは人間のわがまま勝手が認められているわけだ


 しかも、念仏を唱えたものを好かねばならないとしたら、阿弥陀仏は人間のわがまま勝手の奴隷になってしまう。


 それでは、自動販売機と同じだ。自動販売機は、お金を入れた者には品物を出さねばならない。


 お金を入れるか入れないか相手の自由でいれられたばあいには必ず品物を出さねばならぬのだから


 自動販売機に自由はない。お念仏を唱えるか、称えないかを人間の自由選択に任せてしまえば


阿弥陀仏はまさに自動販売機になってしまうわけだ。


それではおかしい。…と言うのが親鸞聖人のお考えである。


 そこで、親鸞聖人のお考えは、私達が有る時、お念仏を唱えようというきになる。実はそれがすなわち


阿弥陀仏が我々に対する働きかけである。と


私達は自由選択でお念仏を唱えているのではない。


お念仏を唱えようと言う心そのものが、阿弥陀仏の不思議な(我々の考えの及ばない)力によるものである。


 したがって、お念仏を唱えようと言う心が起きたその時、すでに私達は阿弥陀仏に救われているのだと仰っています。


その後のお念仏は救われている喜びと感謝のお念仏「南無阿弥陀仏なのです。

               仏教語辞典ひろさちや著より