日々の糧と法話のページ

   ◎ 願ってばかりの人生から、願われていた人生へと今、目覚めの時です。

   ◎ 四葉のクローバーを探すために三つ葉や名もなき花を踏んではいけない。

   ◎ 現在が救われると、過去も、未来も救われる。

   ◎ 柔らかい枝は折れない、柔らかな心も折れない。

   ◎ 鬼は世間ではなく、自分の中にいると認めると世の中が明るく見える。

   ◎ 熱中する心が無ければ、この世の進歩はあり得ない。 

   ◎ ぐちの言葉を使いなれると、感謝の言葉を忘れる。

   ◎ 言葉一つで人生は、極楽にもなり、地獄にもなる。



     
人間にいのちの輝きあれ ひとの世にいのちのぬくもりあれ!!

     最近のニュースを聞いていると戦慄を覚える事が多い。

   なぜこのような日本になってしまったのか。

    江戸時代、外国人が日本にやって来た時、町や田舎に暮らしている日本人を見て
 
  大変勤勉で誠実温和な国民だと感心したと言う。

   それがいつからこのように変わってきたのだろう。

  現在の殺伐とした生活は、仏さまの世界が見えなくなっているからではないか?

   自分が・・・俺が・・・私がと言う自我ばかりが前面に出てくる世界で、

  自分さえよければ他人なんかどうでもよいと言う考えの人が多くなったせいではないだろうか。

   そこにはおそらく、人間に生まれてよかったと言う感慨もないだろう。

 「念仏よひろまれ」と叫びたい。!!合掌 なむあみだぶつ 南無阿弥陀仏



                                             


  ◎ 料理と対談の良さは後味で決まると言います。

  ◎ 雨の日は悪い天気と言いますが、こちらの都合が悪いのです。

  ◎ 本当にどん底ならそれ以上に下がることはない、後は上がるだけ。

  ◎ はじめから 難しい事や 苦手な事に挑戦しないで、興味ある事から始めてみよう。

  ◎昔。赤ちゃんの笑顔を見て改心した強盗が居た、

    とうとうこの話通じない時代になってしまったのか。


  
太陽や大地や水の恵みを受け お米や魚の命を頂き

                           生かされて生きている私

  お米や魚を食べると言う事は、お米や魚の命を頂くと言う事。

  ほかの生き物の命を犠牲にして、自分が生かされている。

  その食べ物は、太陽や、水や、空気や、大地のおかげで育つ事が出来た。

   だから、何から何まで宇宙万物一切の恵みを受けた、そのおかげさまで、私は今生かされている。

  しかし、普段はその事を忘れてしまっている。

  与えられている命を我がものとし、「我が命」を生きていると錯覚している。

  この命は私の物でない、宇宙万物のいのちなのです。その事に気づき、

  感謝する気持ちが南無阿弥陀仏なのです。

  この事に気づくことが無くなって、


  最近は平気で人の命まで殺めると言う事が日常茶飯事にテレビから聞こえて来る。悲しい事です。


                                                


  ◎ 人に勝とうと思う時は先ず自分に勝ちましょう。

  ◎ 苦みを知らなければ、甘みも分からない。

  ◎ 前でペコペコする者は、後ろで拳を固める。

  ◎ 最も賢い人でも過ちを犯すことが有ります。

  ◎ 良い癖は中々つきにくいが、悪い癖はなかなか取れません。


  
 法話 
 
  ご先祖さま   与えられた命

  私たちはご先祖さまと言うとすぐに何代目の先祖さんと言う事を考えてしまいます。

 古いお店とかは何代目とか使いますが、本当のご先祖さまは、何代目とかでは数えきれないのです。

 先ず私が生まれて来るには両親を縁とします。その両親には、それぞれ両親が居ます。
 
 私から言うと祖父/祖母ですが、父方の祖父・祖母 母方の祖父・祖母 合わせて4人です。

  私から言うと2代目は6人です。更に祖父・祖母の両親がそれぞれ2人づつ。・・・・・・・・

 このように遡って行くと10代遡るだけで2千46人。20代に遡ると2百9万7千50人。

 更に30代に遡れば10億人以上の血とご縁を頂いています。

 そこに気づかせて頂いた時、今私が此処にいると言うことは不思議と言えるのです。

 よく誰かに何代目かの先祖さんが、祟っているとか迷っているとか言われて悩んでいる人に出会いますが、

 そのような人に迷わされて迷っているのは自分自身なのです。

  不思議な命を頂いたことに感謝して、命を粗末にしない事です。数限りないご先祖様に感謝しましょう。

 生かされている今の命を大切に。合掌 南無阿弥陀仏

 なむあみだぶつ。は 量り知れない,

     無量の仏さまのお名前です。

                         





    いくら無理したとしても 結果が出ないことが有る ユックリ休むことで 次の道が見えて来ることもある

   苦しかったらやめればいい 辛かったら立ち止まれrばいい

   無理しないのは怠ける事ではなく 次にがんばるためのための準備

     頑張るとは無理する事でも 無茶する事でもない 最後まで諦めずに

       目標に向って 自分のペースで進めばいい。


  愛されていない命は ひとつもない 

         尊ばれない命はひとつもない。

                        


 
 法話

   
おかげさま

     あるお寺の掲示板で私はこんな言葉に出会いました。

 『日光・空気・水  生きるために必要なものはタダである。

   タダで生かされている恵みを 知らない所に 行き詰まりがある』

  この言葉を別の面から表現しますと

 『土・水・空気 人間の作った物じゃない』

                   と言う事になるようです。

  一番身近な所にあって、生きるこの私を、しっかりと支えていてくれる

  もっとも大事なものの恵みさも当たり前の物のように貰いっぱなしの私達です。

 仏法には「冥加」(みょうが)という言葉がありますが、

「おかげさま」と言う事を、一番忘れているこの私自身でした。‥‥そんな今

  「毎朝めをさますたびに  あなたはこう言ってもいいだろう。目が見える 耳が聞こえる

 身体が動く  気分が悪くない  ありがたい! 人生は美しい!」

      と言ったフランスの作家・ジュール・ルナールの言葉を味わい直して見たいことです。

               南無阿弥陀仏・なむあみだぶつ  合掌

                                              

  ◎ 寝る前に感謝する。明日がどんなに楽しくなるか 思い浮かべて見ましょう。

  ◎ 悩みは誰でも抱えている。自分だけが苦しいわけでは有りません。見せないだけです。


 ◎ 他人に言われて 初めて気づくことが有ります。出会いを大切にしましょう。

  ◎ 当たり前の中から有り難い物を発見した喜びこそ宝物です。

  ◎ しょっちゅう愚痴をこぼすこの口の間から只今ほっとけさまのお名前なむあみだぶつの
  
           お念仏が出て下さる。有り難い事です。


                                            

  法話

     息は私がしているのではない 心臓の動きも私の力では有りません。

    不思議な力が私に働いて 私が生かされているのです。

  私たちは普段。 自分の力で生活していると思って居ます。

  しかし、自分の力で息をしているのでしょうか。自分の力で心臓を動かしているのでしょうか。

  自分の力で食べ物を消化して吸収しているのでしょうか。

  全て、宇宙全体に行き渡っている不思議な力が不断に働いているからです。

  この不思議な力は全ての人々(衆生)にはたらいています。

  老若男女といった区別を一切しないので、これを仏の大慈悲心と言います。

  この事に気づかされる時。なむあみだぶつ(南無阿弥陀仏)が、感謝の心とともに

  私の口から出て下さるのです。

                      



   ◎ 金銭は肥料の様な物です、ただ何処に蒔くかは千差万別です。

   ◎ 旅行から我が家に戻ってホッとする

        矢張り油断の出来る場所が一番落ち着く


    マラソンとリレー
   
  
   人生をよくマラソン競争に例えられますが、私は人生は「メドレーリレー」だと思います。

   何故なら、マラソンは42キロ以上を一人で走り通すのですから、何かに事故でその選手が

   途中で挫折したら、それで其の人の競技は終わりだからです。

   「メドレーリレー」は競争者が複数で、各自一定の距離を分担して走り次のランナーに引き継ぐ競争です。

   私は人生はメドレーリレーだと言うのはランナーが老若男女まちまちで走る区間は、各ランナーの寿命の

  長さで一定しないからです。

    また人生と言うメドレーリレーにはゴールがありません。完結のない永遠の途中です。

   人間は与えられた我が寿命年限を全力疾走してバトンを次の世代に渡してコースから去るのです。

  自分の一生という区間が長いか短いはバトンを次の走者にリレーするまで分かりません。

   たとい短い区間でも全力疾走したことに満足するなら悔いはない・・という人生への価値観を

  腹のどん底に置いたら死の苦悩が無くならなくても、苦悩の機能がはたらかなくなるので。

   死の苦悩は有っても無いのと同じ事になります。

    与えられた寿命を完全燃焼する人生でありたいものです。

                 なんまんだぶ。 なんまんだぶ。



  ◎ たとえ質素なくらしでも、こころは豊かでありたいものです。

  ◎ 宗教とは・・生活の中で聞くもの気づくもの。

  ◎ 腹を立てることで得な事は何もありません。

  ◎ 夕日も一夜過ぎれば朝日となります。

  ◎ 評論家より評論される人の方がずっと偉いと思う時があります。

  ◎ 拝む手で何でできようわるいこと。

  ◎ 拝む手をつないで大きな輪になりましょう。

  ◎ 仏さまはいつも見ていて下さいます。

  ◎ 自分の悪口言ってみたらどうだろう。

                             


  法話

 自分の人生

  嬉しい時でも、悲しい時でも、自分の人生はそこにしかありません。

  だから、嬉しい時でも、有頂天になってはいけない。いばってはいけない。

  悲しい時でも逃げてはいけない。ヤケになってはいけない。

  それよりも…仏さまの前に座ることです。

  手を合わすことです。なぜなら、自分の嬉しさや悲しさを知って居るものは

  本当に知って居るものは自分と仏さまのほかにいないのだから。

  手を合わせて仏さまの名前を呼んでみましょう。

  仏さまはいつもあなたの傍にいらっしゃいます。

  仏さまとなられたご先祖さまもあなたの傍にいらっしゃいます。

  その仏さまの名前は、なむあみだぶつです。

  南無阿弥陀仏と呼んでみましょう。嬉しい時も悲しい時も

  いつも一緒に喜び、いつも一緒に悲しんでくださいます。

  そしていつも見守って下さっています。

                              



    ◎ 仏さまから与えられているものはみな平等です。

        受け取るか受け取らないかはあなた次第です。

 
    ◎ 本物に触れると

        偽物に惑わされません。


    ◎ 知識と知恵は違います。 知識は使いようによっては

       恐ろしい物を作ります。

       
    ◎ 知識と慈悲がプラスされたものが智慧です。


  ◎ ご先祖様が有るから今の私が有るのです。

   ◎ 優しい言葉に笑顔で感謝。

   ◎ 当たり前と思って居た事が、当たり前で無くなった時に当たり前の有難さが分かる。

   ◎ 雪の下にも春の芽がある。

   ◎ 仏さまにお願いする前にまず感謝。

   ◎ 理屈を言うより汗を流そう。

   ◎ 決断や判断は穏やかな心の時にのみ行うべきです。

   ◎ 自分の言う事には責任を持ち、実行を伴っていきたい茂のです。


  白梅の香に つめたさをくぐった 

   其の人の いのちのけだかさが しのばれる

  白梅の香に 悩みをだきあげた

   其の人のいのちのふかさが しのばれる

                 ン中西智海著 こころの花びら より

 
  腹が立ったら鏡を出して顔をみろ

        鬼の姿が無料で見られる。

 お寺の掲示板で見かけた言葉です。普段は菩薩のように穏やかな顔をしている人でも

 怒りに狂えば鬼の形相になるものです。鏡に映った自分の顔が鬼のように見えたら

 恥ずかしくて仕方ありません、 この自らを恥じる心は、欲や怒りの炎を鎮火させるのに

 とても有効です。理性や知性ではコントロールできないのが感情だからです。

 わたしたちの内側には生まれた瞬間から鬼が住み着いています。

 気分や機嫌のによっては息をひそめていますが、いざ欲が満たされなかったり、

 思い通りに成らなかったりするとこの鬼は途端に暴れだします。世間や他人ではなく

 自分の中に居る鬼の姿がみえたひとは、心の鏡を持てた人です。

   セトモノとセトモノと  ぶっつかりっこすると

   すぐこわれちゃう  どっちかやわらかければ だいじょうぶ

  やわらかいこころをもちましょう

  そういうわたしは いつもセトモノ

       (相田みつを「セトモノ」)

         心の読み薬~マインドフルネス処方箋~吉村隆真著 探究社刊より借用

                         
    なむあみだぶつ。なむあみだぶつ。合掌



                          
   和顔愛語 (わげんあいご)

      言葉は心の鏡です。明るく優しい言葉で話しませんか。

  目は心の窓である 心に思う事は まづ まなざしに現れる

   やさしいまなざしは 相手の心をやわらげて ひきつける

  お互いに 美しく やさしい心を 育てましょう。

  九条武子さんは言った 『すてられて なお 咲く花のあわれさに
  
                    また取りあげて 水あたえけり』 と


   
太陽や大地や水の恵みを受け

   お米や魚の命を頂き生かされて生きている私

      当たり前が、当たり前で無くなった時、当たり前の有難さが分かる。

  お米や魚を食べると言う事は、お米や魚の命を頂くと言う事。

 ほかの生き物の命を犠牲にして、自分は生かされている。

 その食べ物は、太陽や水や、空気や、大地のおかげで育つ事が出来た。

  だから、何から何まで宇宙万物一切の恵みを受けた、

   そのおかげさまで私は今生かされている。

   しかし、普段はその事を忘れてしまって居る。与えられている命を

 我がものとして「我が命」を生きていると錯覚をしている。

  この命は私のものでは無い。 宇宙万物のいのちなのです。

   その事に気づき、感謝する気持ちが、『南無阿弥陀仏』です。

   合掌して「いただきます」は大事ですね。


   
  ◎ おがむ・おがむ仏を拝む人を拝むいのちを拝む、拝むと言う事は自分の欲望を押し付ける事では有ません。

  ◎ 散る花を惜しみ生える草を嫌うのが人情ですが、花に心なく草に罪は有りません。

  ◎ 付きつはなれつ、つきつ子育ても人付き合いもみんな一緒です。

  ◎ 聴こえますか仏さまの「声」(おしえ)が。

  ◎ 喜怒哀楽心のゆれるままにお念仏させて頂きましょう。

  ◎ 夕日も一夜過ぎれば。朝日となります。辛い時はもう少しです。頑張りましょう。

   
法話
  大地から生命(いのち)が顔を出す。人間は雑草と名付ける

   春ともなればあらゆる草木が芽を吹き、花を付ける。生命の有ることの荘厳な
  
  いとなみが、そこにある。それぞれが、生命いっぱいに自己を表現している

  個性は十分に発揮しているようである。

  「雑」は雑巾の「「雑」であり雑炊の「雑」でもある 雑巾は周りの物を美しく拭ききよめついには自分自身が

 よごれてボロボロになって生涯を終わっていく。

 雑炊は米、麦、キャベツ、ニンジン、ホウレン草、大根などなどが一緒くたになって、

 それぞれの個性は無い。しかし全体で素晴らしい味を出す。

  人間が勝手に雑草となずけて「雑」を嫌って居るだけであるのでしょう。

  あみだ様は良い悪いの計らいを持つ私たちを区別なくお救い下さいます。

               なむあみだぶつ 南無阿弥陀仏。                



  おめでとうございます。昨年は世界中が異常な年でありましたが、

          本年は健康で明るく楽しい年でありますように。

  『言葉は精神の脈拍である。』  亀井勝一郎氏の言葉です。

      言葉を開拓することは精神を開拓することです。

      優しい言葉は相手を快くし 温かい心を呼び起こす

      一日一言  言葉を開拓して こころの脈拍を正したいものです。



    ◎ 今日の不養生が明日の病気をひきおこす 今日の養生が明日の健康を取り戻す。

    ◎ 寒さに震えた者ほど太陽を暖かく感じる 人生の悩みをくぐった者ほど生命の尊さを知る。

    ◎ 涙と共にパンを食べた者でなければ 人生の味は分からない。

    ◎ お金を貯めて自信を得ている人が有る 金が無くなれば崩れる自信である。

    ◎ 合掌して ご飯を頂けないような人は 不幸な人だ。

    ◎ 年の暮れ静かに暮らそう 春が明るく待っている。

    ◎ 思えば生きとし生きるのもは みなこれ 世々の父母姉弟です。

    ◎ たった一言が人の心を暖かくする たった一言が人の心を傷つける。

    ◎ 有難い有り難い 勿体ない 済まない と言う事を忘れている人は一番不幸な人です。


       
  
      法話

   太陽や大地や水の恵みを受け

  お米や魚の命を頂き

  生かされて生きている私

   お米や魚を食べると言う事は お米や魚の命を頂くと言うこと。

  ほかの生きものの命を犠牲にして、自分が生かされて生きている。

  その食べ物は太陽や水や空気や大地のおかげで育つことができた。 

  だから、何から何まで宇宙万物一切の恵みを受けた

  そのおかげさまで私は今いかされています。

   しかし、普段はそのことを忘れてしまっている。

  あたえられている命を我がものにして「我が命」を生きていると錯覚している。

  この命は私のものでない、宇宙万物の命なのです。

  そのことに気づき、感謝する気持ちが、南無阿弥陀仏です。


     

   ◎ 目に見えない力を知る人になりたい。

   ◎ 手を合わす心にいます仏さま。

   ◎ 後ろから拝まれるような人になりたい。

   ◎ 仏さまは遠くに居られるのではなく、 私の近くに居て見守って下さっています。

   ◎ 人の幸福を念ずる人にのみ真実の幸福は宿ります。

   ◎ 人間の最も美しい姿は合掌し仏さまを礼拝する姿です。

   ◎ 損得無しで世の為人のために尽くしている人は菩薩さまの様です。

   ◎ 仏さまの様に成る これが、私たちの生きる目標ですが、中々難しいですね。

   ◎ 本当の物に出会うと偽物が分かります。

   ◎ 勿体ない。有り難い。すみません。お蔭さま。ご苦労さま。この五つの心は私の宝です。


        
 [かくれたもの]   

    奇麗な  花のかげには  かくれた根のちからがある。

         気品の高い  人柄の  かげにはかくれた精進の  きびしさがある。


     
  [終わりを美しく]

   みずからを  染めつくした紅葉のいろどりは

      終わりを美しくと  語っている

  みずからを燃やし尽くした その人のいのちは

     終わりを美しくと  告げている 

             中西智海師  こころの花びら 


                                            


    
      法話   一味 (いちみ)

    
         釈迦のみ法(のり)は唯一つ  一味の雨にぞ似たりける

         三草二木は品々に 花咲き実なるぞあはれなる

           【梁塵秘抄】(りょうじんひしょう)の「一味の雨」の詩です

   三草二木とは小・中・上薬草と小・大樹です。これらは、大小の差は有っても皆慈雨に潤されて育ち

   薬用になるのです。

   このように、仏法は貴賎・男女・大小に関わり無く平等無差別であることを一味(いちみ)と言います。

   それはちょうど海水がすべて同一の塩水であるのにたとえたものです。


   「凡夫も聖者も皆仏さまの願いの海に入ればどの川の水も海に入れば一つの味になるように

     等しく救われる」と言う意味でしょう。 雨は全てを潤す意味で「一味の法の雨」とも言います。

  【正信偈】に「如衆水入海一味」(にょしゅうすいにゅうかいいちみ)とあります。

   そこから 一味同心(心を一つにして味方する)一味徒党(同志の仲間)などの語句が生まれました。

      しかし、悪党の一味などは穏やかでありませんね。           合掌

 
                                                          




    ◎ 空っぽの容器程大きな音を立てる。

    ◎ 助け合わねば生きて行けないお互いが、時には害し合わなければ生きて行けない悲しい現実。

    ◎ 言葉は心の裸ですと言った人が有ります。(言葉は精神の脈拍である)

    ◎ 物は上から下に落ちますが、人間は欲にからまって堕落します。

    ◎ 知識人がすべて善人とは限らない。知識は悪用することも出来るから。

    ◎ よい子も良い先生も過ちを犯します みんな凡夫だよと仏さまが喚んでいます。

    ◎ 善人は悪人を受け入れず悪人は善人を認めない悲しい人間。

    ◎ 時代に追従するだけなら自分を見失ってしまいます。

    ◎ 嫌いな人の言葉は正しい意見であっても 耳に入り難いものです。





      法話

           
仏法を聞くというのは  私自身を聞くことです。

       邪見驕慢の私であったと
 信知することです。


     仏法を聞くというのを、なにかお経の勉強のように思っている人がいますが。

     法を聞くと言う事は、私自身を聞くことです。

      私たちは自分の力で生きていると思っています。 しかし、息をするのも心臓を動かすのも


     自分の力では有りません。  

     私たちは自分の力で生きていると錯覚して生活をしているのです。

     これを、。邪見驕慢(ジャケンキョウマン)と言います。

      ほとけさまの智慧に照らされて初めてこの事に気づくのです。

     凡夫と言う事がわかれば、分かるほど頭が下がっていきます。

     それが、南無と言う事です。

     自分の罪業の深さに気づかされる時、助かりようのない私でしたと信知させられ

     初めて阿弥陀仏の救いをし煮る事が出来るのです。


                                                                                                                                                                                                                                                                   
    ◎  今日の一日は自分の大事な自分の一生の一日です。   

    ◎  身体と心こそ、両親の遺産です。

    ◎  渋柿も 干し柿にになれば美味となります。

    ◎  青梅も 梅干しになれば妙薬のなります。 

    ◎  恵まれすぎて 人生につまづく人もあります。

    ◎  どこも痛くない この当たり前の事が有り難い事なのです。

    ◎  食事は健康のもと 不足しても多すぎてもいけません。

    ◎  一日の喜びは一年の喜び 一年の喜びは生涯の喜びとなります。

    ◎  料理は貴方が作ったとしても 材料はあなたで作れません。

                                                
                                   


 
    

    
 一口法話

     太陽や大地や水の恵みを受け

     お米や魚の命ををいただき

        生かされて生きている私

  私達は何故食べ物を頂くときに両手を合わせて合掌して「イタダキマス」と言うのでしょうか。

  お米や魚を食べると言う事は。お米や魚の命を頂くと言う事。

  ほかの生き物の命を犠牲にして、自分が生かされています。

  その食べ物は、太陽や、水や、空気や、大地のお陰で育つ事が出来ました。

  だから、何から何まで移駐万物一切の恵みを受けましたた,

  
そのおかげさまで私たちは今生かされています。

   しかし、普段は、そのことを忘れてしまっています。

  私達は与えられている命を「我が命」を生きていると錯覚しています。
   
  この命は私のものでは無い。宇宙万物の命なのです。

  その事に気づき感謝する気持ちが南無阿弥陀仏と声になって出て下さるのです。

                         


     
      ちょっといい言葉

       幸運の女神は謙虚さを好みます

       反対に自分を絶対だと信じて人を見下すような人
      
       あるいは他人と自分を比較して

       妬む、そねむ、ひがむ、恨む。憎む。

       といった感情をあらわにする人。

       そういう人からは運は逃げていくのです。

         日本将棋連盟  永世棋聖   米 長 邦 雄



                             





     ◎  今日の一日は自分お一生の中の大事な一日です。

   
    ◎  生かされているこの命は誠に尊いものです。

    
    ◎  渋柿も 干し柿になれば 美味となる。

    
    ◎  恵まれすぎて 人生をつまづく人も有ります。

    
    ◎  健康は最大の幸福 心の満足は最大の富です。

    
    ◎  生かさるる いのち尊し 今日の歓び (信心歓喜)

    
    ◎  限りある人生だからこそ 今日そして今に打ち込む。

    
    ◎  自分には要らなくても それを必要とする誰かがいます。

    
    ◎  料理はあなたが作ったとしても 材料全てをあなたで作れません。


  

         

    法話

    健康のありがたさ
      
     
       あるお寺の掲示板で、私はこんな言葉に出会いました。それは・・・・・


         
『手術場には手を消毒する流しの前に必ず鏡がある。
        
              
               その鏡は、外科医が自分の心を照らしてみるために有る。という。』


    
        「健康な人は自分の健康に気が付かない。びょうにんだけは、健康の蟻型を知っている」と言ったの

   
         イギリスの思想家・トマス・カーライルでありますが、世の中がどんなに変わろうとも、『医は仁術』と言う

    
      
         昔からのことわざの通り、全力をあげて病気と取り組んで下さるお医者さんを、どこまででも

    
         私たちは信頼しなければならないとと思います。

     
         あるお医者さんが、こんな言葉を仰ってくださいました。それは・・・

    

        『寿命は仏さまにお任せし 病気は医者に任せ 看護は家の人にお任せすれば

          
                               あなたは、何の計らいも要らないわけです』


      
         そこに私は、ありがたい仏さまの教えの鏡と、お医者さんご自身の尊い心の鏡を見せて頂きました。

                                           
 
                                     鬼 手 仏 心

◎ そのうち そのうち 弁解しながら 日が暮れる。

 ◎ 野道の咲いた小さな花にも今日一日限りの出合いを思い大事にして行こう。

 ◎ 知らぬ間に親に見習い 子は合掌。

 ◎ 亡き友と語らんとして言葉なし み名を称えて問いつ答えつ

 ◎ あやまちは誰でもする 強い人も 弱い人も えらい人も おろかな人も。

 ◎ あやまちは人生を決めないあやまちのあとが 人世を決める。

 ◎ 小さい手も 合わせれば 大きな幸せを呼ぶ。

 ◎ 恥をかくことは 人を知り 自分を知り 人生を知る。

 ◎ 子を持ちし 今の心にくらぶれば 昔は親をおもわざりけり。

 ◎ 知りなが つい忘れがち 親の恩。

       

    
 たった一言が

        以前、あるお家のお仏壇に、小さなトロフィが飾ってありました。

     見ると、その家の息子さんが、少年野球の大阪大会で優勝して貰ってきたものを、

    仏さまと亡くなったおばあちゃんに報告するためです。

     私が「りっぱなトロフィですね」と言いますと、お母さんが嬉しそうに「大阪大会で優勝してもらって来ましてん」

    と おっしゃる。

     すると、私の後ろで仏さまを拝んでいたその家のお祖父さんが「そやけど、それは五千円もしまへんやろ」と

   言われた。

    せっかく子どもさんも、お母さんもよろこんで、感謝の意味も込めておかざりしているものを

   悪気は無いのでしょうが水を差すような言葉であります。

    なるほど、本物のトロフィは一つしかないから、選手一人一人に渡されたものは小さなプラスチックのトロフィの

   レプリカです。 しかし、その下には『優勝大阪大会』のプレートが付いています。

    そこで、私は、おじいさんに「おじいさん、これはレプリカと言って、小さいけれどこれに付いているプレート

   『優勝〇〇チーム殿 産経新聞社』これに値打ちがありますがな、大阪大会に優勝しようと思えば、

   区で勝ち抜き、ブロックで勝ち、大阪市で勝ちそして府で勝ち抜かなならんのですよ。

   これには毎日毎日の大変な練習と汗がこもっています。これはお金では買えませんよ。

   いくらお金を出してもこれはもらえません。それ考えたら、これは立派なものですがな」と言いました。


   おじいさんは「そらそうですわなぁ」と言い、子どもとお母さんは嬉しそうに笑っていました。

    私は時々お寺の門の前の掲示板に『たった一言が人の心を傷つける たった一言が人の心を暖かくする』と

   書いて貼ります。私達は、何気なく行った事でも人の心を傷つけている事が有ります。

   心がけたいものです。

   『有難う』 『済みません』この一言が人の心を暖かくする大事な一言だと私は思って居ます


  ちょっといい話 
      
帽子は駅を超えて

      大阪府門真市の木俣 肇さんの体験談です。

       夏の暑い日々帽子が無くては歩けない。

 
     その日も帽子で日光をっさえぎり、歩き疲れてようやく電車の駅にたどり着いた。

     ホッとして、帽子をとって涼む。

     そこは分岐点の駅で、多くの電車が交差し、乗客の数も多い。

      私の載る電車が来たので慌てて乗った。扉が閉まって発車後、私は帽子を忘れた事の気が付いた。

     思い出の帽子なのにショックであった。

    未練たらしく、その駅の方を見ていると、通路をこちらへ歩いてくる方がいる。

    なんと、右手に私の帽子を持っているではないか。「忘れ物です」と

    その初老の男性は笑顔で帽子を渡してくれた。 

    「有難うございます。大切な帽子なので」とお礼を言っているうちに次の駅に着いた。

    「では失礼します」とその方は降りた。

     なんと、わざわざ乗る必要のない電車に乗って、駅を超えて私の帽子を届けて下さったのである。

    さわやかさに心が洗われた。同じような事が有れば、お礼返しに私もこのような親切をしよう。




 ◎ 一年の計は元旦にあり。

 ◎ 嘘をついたとたん 良い記憶力が必要となる。

 ◎ 歳旦の芽出度きものは念仏かな。

 ◎ 初春や法身の弥陀に合掌す。

 ◎ 真実は 沢山の言葉を必要としない。

 ◎ 今夜の不摂生が明日の病気をひきおこす。今日の養生が明日の健康をとりもどす。

 ◎ 心の眼が開けるのは 苦悩に遭うた時。

 ◎ 寒さにふるえた者ほど 太陽を暖かく感じる 人世の悩みをくぐった者ほど生命の尊さを知る。

 ◎ 有難う 言われるように 言うように。

 

    明けましておめでとうございます。

歳の始めですので今日は探究社から出版されている鷹谷俊昭先生の月々の法話から読ませて頂きます。

   念仏申さるべし

  お正月になると蓮如上人のお言葉を思い出します。

 『勧修寺村の道徳、明応二年正月一日に御前へまいりたるに、蓮如上人仰せられ候、道徳はいくつになるぞ

念仏申されべし』

 おぼえておられる方もおられると思いますが、昔はお正月に年を取ると言う習慣がありました。

ですから、満年齢と数え歳年齢とがありました。これからの人にはしだいにこの「いくつになるぞ」と言う

お言葉の実感がわからなくなるのではないかと思ったりしています。

 蓮如上人の仰せの中心は、その次の「念仏申さるべし」にあることは明らかですから

 この方だけはしっかりと味わいたいものです。

 お正月は大掃除をしてきれいになったお家で、多くの方は仕事が休みでのんびりと楽しく

過ごされる事でしょう。  

 しかし、元旦も大晦日も含めていちねんであり、その積み重ねが一生ですから、人生にとって

どの日もみな大切な一日であります。

 どの日も皆お念仏を称えなければならない日です。

 ついうっかりお念仏を申したということはまずありませんが、他の事にかまけて、つい念仏もうすことが

おろそかになることはよくあることです。

『寝ても覚めても、いのちのあらん限りは、称名念仏すべきものなり」とのお示しのお心を、とくにお正月の

お祝いのことばとして下さったことを有り難くお聞かせ頂くのです。

 お念仏はまさにお正月にふさわしいめでたい、有難いお言葉であり、尊い言葉であり

喜びの言葉であり、感謝の言葉であります。



                               


      
ちょっといい話

 
カルシウムとビタミン

 カルビー株式会社を創業し、大ヒット商品「かっぱえびせん」を生み出した松尾孝氏は、戦前から広島で

食品会社を経営。米を製粉したお菓子などを作っていました。ところが、1945年、広島に原爆が投下

市内中心部は一瞬にして廃墟と化してしまいます。さらに、戦争の結果は敗戦。人々が失意のどん底に

いる中、彼は、そこで多くの人に喜ばれる食べ物を作ろうと決意するのです。

 
 彼が、先ず販売したのは、澱粉に山菜を混ぜた団子。手軽に空腹を満たす事が出来るため

 行列が出来るほどの売れ行きだったといいます。そして、戦後の混乱が収まってくると子どもたちに

元気に成って貰おうとキャラメルの販売を開始しました。

 次に彼は、老若男女問わず喜ばれるあられを作ろうと考えます。しかし、米は勿論、殆どの穀物が

管理されていた時代の事、彼がいくら頑張っても、原料の米は中々手に入りませんでした。

 その頃。日本政府が小麦粉と澱粉で作る人造米を開発していました。

そこで彼は、入手が比較的容易な小麦粉を米の代わりにしてあられを作る事を思いつきます。

 そして1954年ついに小麦粉であられを作ることに成功。翌年パッケージに当寺人気だったかっぱの

イラストを起用し「かっぱあられ」として発売しました。


その年、彼は社名をカルビー製菓株式会社に変更します。

実はカルビーとはカルシウムとビタミンの事。日本人に不足している栄養素ハカルシウムとビタミンB1と言う話を聞いた

彼の、人々の健康に役立つ商品を作りたいと言う願いが込められているのです。

              佐藤光浩著 ちょっといい話 株式会社星雲社 発売より



 
 ◎ 人生はそれがどんなものであるかを知らないうちに半分すぎてしまう。

 ◎ 喜んで事をなし なされたことを歓ぶ人は幸福である。

 ◎ 争うこころ 後に 大いなる怨みを結ぶ。

 ◎ 敬の心が 自分の内に育てられてこそ 初めて 和の人生が始まる。

 ◎ 馴れては 道理を忘れ 人世を破る。

 ◎ 心の眼を開けば 当たり前の事が驚きとなる。

 ◎ 心の眼を開けば どこにでも 教えが有る。

 ◎ 弥陀の本願には老少善悪の人を選ばず ただ信心を要とすべし。


         


       
 餅の的
 私が子供頃読んだ絵本のお話です。

   昔、ある所に田や畑を沢山持っていた大地主が有りました。

 お金がどっさり有って、暇が有るので、毎日弓を持って鳥や獣を射殺して遊んでおりました。

 「地主様は、弓のお上手なこと天下いち、見事、見事」と皆が褒めはやしますので、

 しまいには、調子に乗って一人てんぐになりました。

 「昔から今まで、ずいぶん弓の名人はいたが、俺ほどの物はひとりもいない、

 さあ、何でも持って来い、射当てて見せる」

 と、こんな自慢をするようになりました。そしてある時

「鏡餅を的にして射たら面白いだろう」と言いましたので、今まで褒めていた人たちもこれには

 びっくりして「餅は大切なお米で作ったものです、これだけは射てはなりません」

 こんなに言って止めましたが、大地主はそれを聞かないで射てしまいました。

 矢は鏡餅の眞中に当たりましたが、矢が当たると鏡餅は羽が生えて飛んで行きました。

 同時に蔵の中のお金や米俵にも羽が生えて飛んで行ってしまいました。

 それから後、この人の田には少しのお米も取れなかったと言うことです。

 何となく現代でも通じる話のような気がします。


                                         

   
ちょっと いい話   

      マザー牧場

  千葉県の富津市に今でも有るでしょうか。「マザー牧場」。都心からほど近い場所に有りながら、

 豊かな自然に触れられるとと有って、関東では人気のスポットでした。


 さて、この牧場の名前には母親を意味する「マザー」という言葉がつけられています。

 インパクトも有り、温かみを感じられる素敵な牧場名ですが、実はこの名前には

 創業者の深い思いが込められていました。

 マザー牧場を作ったのは、前田久吉と言う実業家で、参議院でもあった人物。 

 産経新聞や東京タワーなどの創業者としてもしられ、1965年には勲一等瑞宝章を受章しています。

 さぞ豊かな人生を送ったのだろうと思う人も多いでしょう。

 しかし、。大阪の郊外に会った彼の生家は、とても貧しい農家でした。

 母は、口癖のように「家に牛が1頭いれば、もっと楽な暮らしが出来るのに・・・」と

 言っていたそうです。 その時彼は家計を助けるために新聞配達を始め、そこから新聞販売店主。

 地域の新聞発行者、地方新聞発行者と身を立てて行きました。

 そして、日本を代表する実業家の1人になったのです。

 しかし、「家に牛が1頭いれば」と言う母の言葉が成功者となった彼の脳裏には深くやきついたまま。

 また、これからの日本には、畜産業の振興が不可欠だと言う思いが強かった彼は

 千葉県富津市にある鹿野山一帯の地域開発を行い大きな牧場を作りました。

 それが、「マザー牧場」です。マザー牧場と言う名前は亡き母に捧げる牧場と言う意味だった二です。


 前田久吉さんは西宝寺のある大阪西成区天下茶屋地区で地域の新聞を発行されていました。

 それが現在の産経新聞社の始まりでした。




   ◎ 有難いの反対は 有り難くないではなく、 当たり前と言う考え。。

   ◎ 先に生まるる者は 後を導き 後に生まるる者は 先を訪ねよ。

   ◎ み仏は衆生の 苦悩ある胸に やどりたもう。

   ◎ み仏は おののくもののために 大安となりたもう。

   ◎ 本願を信じ 念仏申さば 仏に成る。

   ◎ 仏のみ名は すべてのまよいを破り すべてのねがいを満たす。

   ◎ 浄土を願う人は 浄土をつくる人である。

   ◎阿弥陀仏のみ名は 悪を転じて徳となす 正しい智慧である。

   ◎ 真実は たくさんの言葉を 必要としない。


 

       
文化の日
11月3日は文化の日です。平和でなくては文化は育たないでしょうから、この日が自由と平和を愛し、

文化をすすめる日と定められている事に意味がありましょう。

しかし、文化と言う言葉はあいまいに使われているように思います。

世の中が開けて生活内容が高まる事にも使われ、文化生活があこがれの時代も有りました。

便利なとか、新式だと言う意味にも使われ、文化何々と言う名前の商品がはんらんした事も有りました。

その様な物質的なものではなく、学問、芸術、道徳、宗教など人間の精神生活にかかわり

生活、人生をを高めていく力ともなる価値を創りだすのも文化と呼ばれます。

これこそ、文化の一番中心部分でしょう。

 私達が先祖から伝えられた浄土真宗の教えは、地獄へ行くより仕方がなかった私を

必ずお浄土に生まれる私に変えて下さいました。

迷いの世界の中で生まれ死に生まれ死にして行かねばならなかった私に

永遠の命をくださいました。自分勝手なわがままな私を自利利他を目指す私にして下さいます。

こんなめんどうな苦悩の多い世の中に生まれてこなければよかったと思って居た私を

生まれてきてよかったと喜べる私にして下さいました。

っそれらの喜びの中で残された人生を、お念仏と共に報謝行で生き抜く事が出来るようになりました。

これこそ、文化の中で最も価値ある宗教文化を身につけた文化生活でありましょう。

みんなをさそってお寺へ参り、この文化の恩恵に浴することも文化の日を迎える大切な過ごし方であります。

                                           鷹谷俊昭師著 探究社刊 月々の法話より


                                      
 心をほぐすいい話         
        
今日も腹立てず。 

       

            芭蕉の句に、  『秋の暮れうれしや今日も 腹立てず』というのがある。

    
文字通り秋の晴れた一日、何の不愉快な事にも遭遇せず、無事に一日終えられそうだ、こんなうれしい事は無い。

  
と言う歌意である。何気ない事だけれども本当に毎日そうであればと、心がゆるむ一句である

   
人間は中々自分でもままならないことが多くて、理屈は分かっていても感情がうまくついて行かない事が有る。

  
ある学校のベテラン教師が、生徒たちに腹を立てない事、堪忍する事を教え諭した事が有りました。

 
「いいか、だから人間には堪忍する事が大事だから、くれぐれもこの二字を忘れちゃいかんぞ」と

  
先生が気張って言うと間の抜けた生徒が、「先生かんにんだから四文字ではないけ?」と質した。

 
 先生はムカッと来たが落ち着いて答えた。

   
 「そうじゃない。堪忍はたえしのぶと書いて二文字なのだ」  

 
すると生徒は「たえしのぶなら五文字じゃないのっけ?」と聞き返したので先生はキレた。

     
「馬鹿もん。堪忍は二文字だ、ふざけた奴め!」

  
 しかし、生徒はやかんが沸騰したように怒っている先生を冷たく眺めながらこう言ったそうである。

    
「ぼくは堪忍は二文字でも四文字でもかまいません。ただ、腹立てない事、怒ってはいけない事だけは分かりました」

  
笑い話だがよくあることである。だから、も一度味わってみよう。

            
 秋の暮れ うれしや今日も 腹立てず』

                    
 
ちなみに秋だけにこだわることはない。年中なら極楽であろう。   蛇足

                                       
渡辺祐介著  江口克彦発行 PHP研究所刊より

 

                     



  人として生まれる
    
     生物学者が言うには、地球上の生物の種類は百三十一万種類も有るそうです。

     その各々の種類にまたはかり知ることのできないいのちが有るのです。

  それに比べてみると、地球上の人間が、たとえ何十億あっても、それは微々たるものになってしまいます。

     ましてや、私一人の人間はなおさらでありましょう。

    ところが、大事な事はこの一人の私に両親が有り、その両親の上にもそれぞれ両親が有る。

    この様に私のご先祖の数は三十代さかのぼると、

         なんとまあ、二十一億四千七百四十八万三千六百四十八人になります。

     原始人までさかのぼると計り知ることのできない人数になります。これを無量・無限と言いますが、

     それだけでは有りません。太陽・水・空気すべて無限の環境を頂いています。

    この無限のご先祖の中のただ一人がなかったら、私はこの世に生まれる事も、人間になることも、

  合掌する事も、こうしてあなたと接するご縁にも恵まれないわけです。

     ことわざに『袖すり合うも多生の縁』と申しますね。

   これは道で行き交う人と人との間にも、何かしら宿世の因縁と申しましょうか、

    暖かみを感ずる私の大好きな言葉の一つです。

  ましてや、夫婦となり、親子となって、同じ屋根の下に住み苦楽を共にできる事は

     これまた、計り知れない因縁の賜物であります。

  ご存知のように、夫婦の契りによって母の胎内に命を頂くのは、

  何億と言う精子の中のただ一つだけであります。

      十月の間、母の胎内で育てられ、ようやくにして人の子としてこの世に生を受けるのです。

  しかし人間の子として生まれたからと言って必ず人間に育つとは限りません。

  元京都大学教授の東 昇先生の言葉を借りますと、

  「お母さんは人間ですね。

     そこから生れ出て来る赤ん坊は必ずしも人間としてこの世に生まれて来るのではない。

    それならいったい何者として生まれ出て来るのか、と。生き物として出て来るのです。

    生き物と言う事は生き物、それは人間であるかもわからない。動物であるかもわからない」

    と言われています。

    人間になるためには、人間の親が育てて良い環境を与えられなかったら育たないんです。

  今の私を育てて下さった全ての環境に感謝せずにはいられません。

     
人身受け難し 今すでに受く 仏法聞き難し今すでに聞く。有難い事です。 


                          合掌 南無阿弥陀仏

 
          

                              


   ちょっといい話


            温かい缶コーヒを

ポッカコーポレーションの創業者・谷田利景は、1972年に本格缶コーヒの『ポッカコーヒ』を開発、

その翌年に世界初となる冷温兼用の自動販売機を、三共電器(現サンデン)と

共同開発しました。気軽に温かいコーヒが飲める、それは飲料業界にとっても歴史的な出来事だったと

言えるでしょう。 しかし、そのきっかけとなったのは、彼の温かな気持ちでした。


創業当時のポッカの主力商品はポッカレモンジュースでしたが、会社が大きくなるにつれて

新たな主力商品を開発する必要が出てきました。

1965年の冬のある日、全線開通したばかりの名神高速道路を移動していた彼は、

近くに有った養老サービスエリアに立ち寄ります。そこで、彼が目にしたものは、寒空の下

冷たいジュースを飲んでいる長距離トラックのドライバーたちでした。

忙しいドライバーには、喫茶店で温かいコーヒも飲んでいる時間などなく、

彼は、日本経済を支える長距離ドライバーが、温かいコーヒーも飲めない状況を

何とかしてあげたいと思います。

そこでひらめいたのが、冷やすことも温める事も出来る自動販売機自動販売機でした。

その中にコーヒーを入れれば、夏はアイス、冬はホットと1年中美味しい缶コーヒーを

提供できると考えたのです。

それは、ドライバーたちが喜ぶだけでなく、

彼自身望んでいた新たな主力商品のアイデァでもありました。


その後、紆余曲折を経て1973年11月、ついに冷温式自動販売機の第1号が設置されます。

その場所は トラックドライバーたちが冷たいジュースを飲んでいた、

あの名神高速道路の養老サービスエリアだったそうです。




                              
  ◎ 言葉は矢ではないが心を突き刺す事が出来る。

   ◎ 芽には気を付けよ口より良く心を映しだす。

   ◎ つまらぬ職業は無い。つまらぬ人々がいるだけだ。

   ◎ 人の事は目に見える。わが身に事は人に問え。

   ◎ 侮辱した者は忘れても、侮辱された者は忘れない。

   ◎ 人生は考え方一つで幸せにもなり不幸にもなる。

   ◎ のびる若竹 親竹超える 親を越えるも親の恩。

   ◎ 人生は良い師を求める旅でもある。人は師の力によって良くもなり悪くもなる。

   ◎ 法を聞いて、この教えこそ私の救われる道であると見極めのついたのが信である。





            六 モ ン セ ン 

 
    昔から「月とスッポン」といいますが、すっぽんは亀の一種です。

  何でこんなたとえが出来たのでしょう。実はスッポンではなく朱盆(しゅぼんー赤い丸いお盆)

  なのです。「月と朱盆」ならどちらも赤くて丸い、だが全然違うと言う事になります。

  ところがだんだん意味も解らず発音だけをまねて「月とシュボン」が「月とスッポン」となってしまいました。

  私達はよくお葬式に参ります。棺の中に花や亡くなった人の好物とともに、よく一文銭を六つ書いた紙を

  入れられる方が有ります。何故それを入れるのですかと聞くと「サンズの川の渡し賃が六文だから」と言います。

  では何故サンズ川の渡し賃が六文なのでしょう。でもちゃんとお経に書いてあります。

  『サンズを渡るには六モンセン』と書いてあります。しかし、漢字では『三途を渡るはこれ六門專』です。

  三途とは、私達の悪業(煩悩)によって作っている地獄・餓鬼・畜生の事で三悪道とも言います。

  六門專とは六つの仏道の門を一生懸命の努力すると言う事であり、布施(ほどこし)・持戒(戒律を守る)・

  忍辱(苦しみに耐える)・精進(努力する)・禅定(心をしずめる)・智慧(心の眼を開く)の六つです。

  この六つをインドの言葉で六波羅蜜(パラミータ・到彼岸)といいます。

  つまり不幸な悩み多い今を乗り越えて、本当に悩みの無い幸せな悟りの向こう岸へ渡る為には

  この六つの努力(修行)が大事なのです。

  ところが昔、普通一般の考えで深い意味も解らないまま六門專を「ははん渡し賃がが六文だな」と

  受け取ってしまったのです・六門專と六文銭では、まさしく月とスッポン(月と朱盆)ほどちがってきます。

  お彼岸のあたって、私達はその言葉のうちに隠された尊いみ仏のおしえの意味をよく考え、

  私達を救わずにはおれないと誓われた情け深い慈悲の心をしみじみ味わっていきたいものです。
   

       
                              

   ちょっといい話

              イカリソース

   イカリソースは創業120年を超える大阪の老舗ソースメーカー。

  日本で初めてウスターソースを作ったのは、創業者である木村幸太郎と言われています。

  さて、会社名に有る『イカリ』とは船のイカリの事で、シンボルマークも船のイカリの形をしています。

  それは、彼が遭遇したある出来事に由来しているのです。

  1895年、彼が乗っていた船が中国の海上で火災を起こしました。

  その時、彼は友人と一緒に居たのですが、独身の彼に対してその友人は妻子ある身

  そこで、そこで彼は自分が持っていた救命袋を快く友人に譲り、皆が脱出した後で海に飛び込みました。

  救命袋の無い状態ですから、そのまま波にのまれて溺れてしまう可能性もあったはずです。

  しかし、彼は運よく救命ランチのクサリにつかまり、何とか生き延びる事が出来ました。


  その翌年彼はソース製造に成功します。そして、命を救ってくれたイカリに対する感謝の気持ちを

  商品に刻みたいとソースに『イカリ』とつけたそうです。

                          ちょっといい話 
発行アルファポリス・発売星雲社より


                                                 
   ◎ 怠惰な生活に慣れて来ると人の喜びや悲しみに鈍くなる

   ◎ 辛抱できそうな失敗なら、自分を発見するチャンスかも

   ◎ 人曰く一流は謙虚にして柔軟,それ以下は傲慢にして硬直

   ◎ 画家曰く(模写と真似の違いは尊敬の念有る無しに依る」と

   ◎ 殺すな怠けず精進せよお釈迦さま不滅の遺言




           
ごころ

      赤ちゃんを産んだ母が 真っ先にたずねる

      体はまともですか 丈夫な赤ちゃんですとも

      ありがとうございます 母よ このへりくだった感謝を
 
      いつまでも忘れないで
・・・・・・

    これは河野進と言う人の「赤ちゃん」と言うしである。

   母は子を産むとき四千メートルの山に登るのと同じくらいの体力を必要とするという。

   我が子を産み終えたばかりの母はすっかり体力を消耗している。

   しかし出産後最初に上るのは、今生まれたばかりの我が子が五体満足化どうか

   それのみを案ずる言葉である。

   子を思う親の心は何物にも代えがたいものである。

   しかし、私達は成長するぬつれて、自分一人で大きくなったように思い

   しかも、この親に手がかかるようになると、つっけんどんになり、わずらわしく感じて来る。

     母の願い それはあなたが病気をしない事

     素直でやさしく 幸福を喜べる人になってくれること を

   考えてみれば この願いは みな私のことばかり、なのに小さい子供は母の着物を踏み

   大きくなっては母の心を踏む。

   何処かのお寺の掲示板にこんな言葉が書いてあった。

   『十億に十億の母あらんもわが母にまさる母あらめやも』

   これは明烏 敏 先生の詠まれた歌であるが、このように慕われた親も素晴らしい人であり

   慕った先生も素晴らしい人である。

   この親ごころを大きく大きく広げて考えてみる時、みほとけ様のお心の少しでも

   知らせて頂く事が出来るのではないでしょうか。

                                 
ちょっといい話

     台湾の「一杯ののかけそば」

     1992年に大きな話題となった『一杯のかけそば』。映画化までされてものの、

    作者が寸借詐欺をして逮捕されたことで一気にブームは去って行きました。

    しかし、台湾では同じような話が2006年3月に実話として新聞に報道されたのです。


   台湾の南投県と言う所に、夫婦と4男1女の子どもの6人家族が住んでいました。

    父親がアルバイトをして生活をしていましたが、仕事は少なく、生活保護を受けなければ

   生きていけない状況でした。

   そこに追い打ちをかけるように母親がガンを患い、入院しなければならなくなります。

   生活はさらに苦しくなり、子どもたちは満足に食べる事も出来ずにいました。



   そんな様子を見かねて、入院先の看護師さんが、5人で分けるには少ないと思いつつも

   1杯だけあったワンタンメンを食べさせてあげる事にしました。

   すると5人のうちの3人の子ども達が分け合って麺を食べましたが、誰もワンタンには手を付けようとしません。

   どうして食べないのかと訊ねると、子どもたちはこう応えたのです。

   「ワンタンはお母さんに食べさせてあげるんだ」


   この話がメディアによって報道されると「親子の為に」と多くの寄付金があつまり、

   時の陳水扁総統も激励のメッセージを寄せました。



                                    


◎ 生きながら地獄におち 生きながら如来に救われる。

◎ 信心浅けれど本願深きゆえに たのめばかならず往生す。

◎ 信実は沢山の言葉を必要としない。

◎ 経験こそは 生きた良師である。

◎ 物で栄えて心で滅びる。

◎ いのちはすべて平等です。 仏さまの願いのかかったいにちです。

◎ 眼を閉じていると見えてくる。まずは自分の次に最も大切なもの。

◎ 迷い抜く道に立たずば、迷いにさえ気が付かずに終わる。

◎ 飽く事事なき欲望にブレーキをかけないと今世紀で地球ごと人生は破滅です。

◎ ボタン一つでご飯が炊ける時代だけれど,ボタン一つで核兵器も発射する。

◎ リキムだけが力では無い、リキムのを抜くのも力です。


                                   

      
水子は菩薩(ぼさつ)さま

   先日、女性の方がたずねてこられて、”水子の供養”をして下さいと言われた。

 くわしく聞いてみると、中絶した子が十人ほどで、最近身体の調子が悪いので見てもらったら

  (お医者さんでは無い)その人が、水子のタタリやと言われるので、

       お経をあげて水子のタタリを鎮めて下さいと言う事です。

 人間の身体は微妙なもので特に女性身体は妊娠した瞬間から、

俗に言う十月十日後には無事立派な赤ちゃんを産んで

 授乳のためのお乳も出るように、心身共に活動をはじめます。

 それを、いかなる理由が有っても、頭で理解しながらも、

途中で胎児だけを取り除いてしまうのだからホルモンのバランスも狂い、

身体の調子がおかしくなるのが当然です。

   ましてや十人程の中絶となると、私たちの想像を超えるものです。

 それを、何さまにいわれてかしらないが、水子のタタリと言うのはもってのほかである。

 自分の都合で中絶した子を、さらに輪をかけるように悪魔のような扱いは考え違いも甚だしい。

 まず、私達自身が、縁がめぐり来れば如何なる恐ろしい事もなしうる心の持ち主である事に

気づかさせて頂き、この積み深い私を懺悔し、信心一つで必ず救い取ると誓われた阿弥陀如来さまの

本願を喜び念仏させて頂く身になる事が大事な事です。

 そうする時、水子はタタリを与える悪魔的存在ではなく、

私達に人間に生まれる事の有難さ、いのちの尊さをしらしめ、

 この罪深い私に『この大切な人生を確かな依り所を持って歩むように』と教えて下さった

仏さまのお使いであったと味合わさせて頂き、いのちの尊さをかみしめながら

  あみだ様のご本願を仰いでお念仏申して頂きたいと思うのであります。

                                 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 合掌

◎ 合掌ほど誰でも 何時でも 何処でも出来る平凡な善行はない。

◎ 平和な家庭は感謝の礼拝から生まれる。

◎ お仏壇は一家の中心 心のより処である。

◎ 他人を喜ばせれば 必ず自分が喜ばれる。

◎ 撒いた種は遅かれ早かれ必ず芽を出す。

◎ 悩み苦しむ煩悩は 仏を信ずる種となる。

◎ 仏さまを信ずる心は人の心の底に横たわっている これが仏性である。

◎ 飲む水の 一口も仏さまのお蔭である。

◎ 人間は自分の都合の良い人を良い人だと言い 自分に都合の悪い人を悪い人だと言う。



       
あ り が た い  

                          

  変な話で恐縮dすが、友人の父君が亡くなられてお通夜に行って少々振る舞い酒をよばれたせいか、家に着くなり

トイレに入り小用をなした。

勢いをついて出て来る小便を終わってホッとして、トイレから出るときにふと立ち止まった。

 いつもなら、”ああいい気持ち”と何も思わず出て来るところだが、今日は何時もとは違う。

お通夜の席で亡くなった父君の死因を聞いて来たからだ。

 友人の父君は数日前に急に小便が出なくなり、入院して管を通して排尿したが、期待するほども出ず、

その上、血が尿にまじっていた。そうするうちにも尿が体内に廻り尿毒症を興して、全身が水太りになり唇までも

はれあがってきました。

 人工透析(とうせき)手術をするにも、高齢の為不可能とのこと、やむなく腹膜透析と言う手術をしたが、

残念ながら二日程苦しんで亡くなってしまったのだ。

その事を思い出して小便はしたくなったら、出るのが当たり前と思っていたが、そうではなかった。

 そう気が付いた時、私はふと立ち止まってしまったのだ。有難い そうだ有難い事なんだ。

 私達は自分で生きている心算でいたが、大きな力に生かされて生きていたのだ。我々は毎日の生活に

慣れきってっしまうと、お蔭様と言う事を忘れてしまい、あらゆることに不満をを抱き愚痴をこぼす。

そして、今日、大きな力に抱かれて有る事に気が付かないのだ。

 眼を開けば 当たり前であることが、驚きとなる。

 眼をひらけばどこにでも 教えが有る。

これは先輩の言葉であるが、心の眼の角度を変えて物事を見てみると、当たり前ではなかった。

有り難い事だ、と、すべてに感謝させて頂けるだろう。



     心をほぐすいい話

   余裕のある国

 1941年5月11日は、ドイツ空軍がイギリス空軍がイギリスを大空襲した日である。

議会の下院議場は無残み破壊され市民は逃げまどい、まさに国難のときであった。

またこの日は、ヒトラー、g-リングに次ぐナチの実力者だったヘスが単身ドイツを脱出し

飛行機でイギリスに飛んできた日でもあった。

ヘスの処遇をどうするかが、その日の下院本会議での大問題であった。

チャーチルは議員に事件の経過を報告しヘスをグラスゴーの病院に収容したと述べた。

やがて質疑応答が始まると、グラスゴー出身の議員が真っ先に質問に立つ。

「そのようなことを公言されますと、グラスゴーが空襲されますぞ。首相には、もう少し慎重な

発言を求めます」

これに対してチャーチルは神妙に、しかし、にやりとして

「ごもっともですな。 しかし、ヘスはいつでもグラスゴーにいると言う事はしないつもりですので

どうかごあんしんを・・・・」

その答えに満場大笑いになった。

 次の議員は「ドイツではヘスが狂気乱心したとしきりに宣伝しているようです。

しかし、ドイツではもっと狂気に走っている男(ヒトラーのこと)が総元締めのようですが、

この奇怪な状況について首相はどのようにお考えですか」と 茶化したように質問。

チャーチルは今度は真面目くさって「いずれ詳細を取り調べました上で、お答え申し上げましょう」

ふざけたやりとりに満場は拍手かっさいであった。

これがなんと、頭上で敵の爆撃を受け議場がすっ飛んだ日の答弁である。

戦況が良くない中のユーモア。 こう言う所にチャーチルの強い意志やそれを支えるイギリス国会議員の

成熟した強さが見て取れるのではないだろうか。

 これがもし日本の議会であったらどうなっているだろう。

いつもの様に大騒ぎになり議長がバンバン机をたたいている事だろう。

言い過ぎかも知れないが、国の文化は議会に十分表れている者だろう。

そのためにもレベルの高い国会で有って欲しい。

それには、国民一人一人が国会に対して厳しい批判の眼を向け議員の襟を正させる世論を

持つ必要が有る事を肝に銘じて行かなければならない。

(これは政党批判をしているわけでは有りません.念のためのに、宗教はあくまで中立です。)






◎ 誰にでも似たような悩みが有る。誰にでも隠された涙がが有る。胸を開いて素直に語り合い

  正しい教えをきき合う所に、明るい人生が開けてくる。

◎ 貸した方は借りた者よりもよく覚えている。

◎ じんせいは、それがどんなものであるかを知らないうちに半分過ぎ去ってしまう。

◎ 十人の子を養う父が有る。一人の父を養いえない十人の子も有る。

◎ 人間は、自分に都合のいい人を良い人だと言い、自分に都合の悪い人を悪い人だと言う。

◎ 信仰は人の善き友であり、この世の旅路の糧であり、この上ない富である。

◎ 真実の信を得るもの心によろこび多し。

◎ 仏の心とは大慈悲である。

◎ 同じ太陽の下の旅なれど曇る日も有り、晴れる日も有り。



     許されて生きる


 ある時、何人かの人が集まって、知ってて悪い事をしたものと、知らぬ間に悪い結果を招いた者と

どちらが罪が深いかという話になり、勿論知ってやった者の方が罪が重いと言う事になった時、一人の人が、

悪いと知ってやった者は悪い事をしたと言う自覚が有るから、いつか懺悔し詫びる事も出来るが、

悪いと知らずに行った者は悪い事をしたと言う自覚がないから反省し、懺悔する事も詫びる事も無いから

罪が重いと思うといった。

 そこで、思い出したのが、先日、NTTの関係の仕事をしている人の話です。

 その人が、ある所で電信柱にのぼって工事をしていたとき、電柱の近くであそんでいた男の子に

母親が「遊んでんと宿題せなあかんで」と言うとその子は「主題あれへん」と言う。

すると、その母親が「宿題なかっても勉強せなあかん」と言った。 これは当然のことで、母親の言う事が正しいが、

子どもに勉強させたい一心からか「いま勉強せえへんかったらおとなになってから(電柱の上を見ながら)

[
あのおっちゃんみたいに高い所にのぼって仕事せなあかんようになるで」と言ったそうだ。

 その子が高いところが嫌いな子だったかも知れんが、電柱の上の人にとってはおおかな侮辱である。

その人は、ムカッと来て下に降りて怒鳴りつけようかと思ったが、NTTの看板が有るから辛抱したけど

腹が立って、腹が立ってと言う事である。

私達は、知らず知らずのうちに、人の恨みをかうような色々な罪深い事を行って来ている。

 罪深い私であると気づかさせてもらったとき。

 許されて生きている私。生かされて生きている私であったと、お詫びとよろこびで、

日々を送らせて頂きたいものである。



  
ちょっといい話

    女王陛下のキス

 2000年7月4日は、20世紀最後のアメリカ独立記念日。

ニューヨーク港には、記念日を祝う洋上式典に参加するため、世界各国の帆船や、海軍の艦艇が集まっていました。

 その翌日、ちょっとした事故が起こります。

 イギリスの豪華客船、クイーンエリザベスⅡ世号が、ハドソン河の流れに押され日本の海上自衛隊自衛艦

かしまの船首に接触してしまったのです。

 クイーンエリザベスⅡ号の船長は船を着岸させると直ぐに機関長と航海士をかしまに派遣。

謝罪のメッセージを送ります。それに対してかしまの艦長はこう答えました。


「幸いにして損傷も軽く、特に気にしておりません。それよりも女王陛下にキスされて光栄に思っております」

 この粋な返答は船乗りの間で標板となり『タイムズ』や『イブニングスタンダード』などでも紹介されたそうです。






    友 達

 今から七百年ほど昔吉田兼好法師が書いた『徒然草』の中に、ともだちになって悪いものが七つあると

書いてあります

最後のうそつきと欲張りは誰でも納得しますが、他の五つは興味をそそられます。

第一に身分の高い尊い人、第二は若い人、第三は病気をしたことのない頑健な人、

第四に酒好きな人、第五に勇猛な武士です。 これらに共通するものは何でしょうか。

それは自分中心にものを考えやすく、自分の欠点や失敗を見直そうとすること少なく、

相手の心や立場を思う事が乏しいと言う事だと思います。

自分は偉いぞ、有名だぞ、能力が有るぞ、体力が有るぞ、自分に反対するとはまちがっている、

言う事を聞けと威張り散らし、相手の言う事を聞こうとしない人であれば、友達にふさわしくない

と言うよりも、友達では有りません。

しかし、私にはそのような傾向はないのでしょうか。これは全く他人事でしょうか。

どうもそうとばかりは言い切れないように思えてきます。今の私は若くも、健康でもなく、能力もなく

有名では有りません。しかし、まだまだ私だってと言うウヌボレが残っています。

兼好法師の言葉は一般論であるとともに私に対して言っているのかも知れないと気付くのです。

本当の私を知ると言う事はとても難しい事だと思います。

しかし、自分を知ることは大切なことです。そしてその私が幸せになることも大切な事です。

だからこそ、そのために仏さまの教えを聞かせて頂く事は必要なのです。


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    ちょっといい話

                 渋茶一杯

昭和30年代、本田技研工業はすーぱーかぶなどの大ヒットを受け、新しい工場を開設することに

なります。何処に工場を作ればよいかと、日本全国にいくつかの候補地があげられ、各地を社長の本田宗一氏

自らが視察に回りました。

それぞれの候補地にとってみれば、大会社の工場を誘致することで多くのメリットが得られます。

そのため、各自治体とも彼の気にいられようと、用地の説明もそこそこに接待ばかりに必死になりました。

そんな中、接待を一切せず、真夏なのにエアコンのスイッチも入れずに彼を出迎えた自治体がありました。

それが鈴鹿市です。

当時の市長は渋茶を一杯出しただけでお茶菓子すら提供しませんでした。

サービスした事と言えば、汗をかいた彼に対して何度もおそぼりをていきょうしたことくらい。

その代り、あらかじめ本田技研が送った質問には懇切丁寧に回答してみせます。

さらにベンチでは市の職員が土地の広さが分かりやすいようにと、炎天の中旗を持って立っていたのです。

これが決定打となり、工場は鈴鹿市に建設されることになり、本田日県鈴鹿製作所がかいせつされました。

鈴鹿市は鈴鹿製作所の完成にあたり、市の名前を『本田市』にすることを彼に提案します。

しかし、本田氏は「伝統ある地名を個人の名前に変えるなんてとんでもない」と丁寧に断ったそうです。


     渋茶一杯

                ちょっといい話ですね。






◎ 信仰は人生の力である。

◎ 急ぎ仏のまことを得て のちの世の光とならん。

◎ 仏の心とは 大慈悲である。

◎ 真実信心をえたる人をば 如来とひとしと説きたもう。

◎ 信心という重心がすわっていれば転ばない。

◎ ただ信心は聞くにきわまりなきことなり。

◎ 自分の身や心を育てるのに喜びを持つ人は 必ずしも多くはない。

◎ 物で栄えて心で滅びる。

◎ 仏の慈悲に生くるものは 善くねむる。

◎ 昨日を追うな 明日を頼むな 今日を生きよ。





        善人でさえ浄土に往生できるのだから

           悪人が往生できるのはなおさらのことです

         無理に善人を装わず、生きるべき。

「善人でさえ浄土に往生できるのだから、悪人が往生できるのはなおさらのことです。

ところが、世の中の人々はふつう悪人でさえ往生できるのだからまして善人は言うまでもない」

と言います。

親鸞聖人が言われる善人とは善行が積める人であり、悪人とは善行の積めない人の事です。

それなのになぜ、阿弥陀仏の救いのめあては善人よりも悪人だと言われるのでしょうか。

そのわけは。

善行を積んで往生を願う善人は、自分の力の方を信頼していて

阿弥陀仏を信じる気持ちが欠けているからです。

一方善行が積めず自分の力では往生できない悪人こそ、阿弥陀仏なくしては救われない人なのです。

「無理に善人を装わず、自分は阿弥陀様に救って頂くしかない

煩悩にまみれた悪人だと自覚して驕らずにいきるべきである」と

親鸞聖人は私達に教えて下さっています。



◎ 初空や法身の弥陀に合掌す。

◎ 歳旦の芽出度きものは念仏かな。

◎ 浄土を願う人は浄土をつくる人である。

◎ 念仏は無碍の一道なり。

◎ 仏のみ名はすべての迷いを破りすべてのねがい
を満たす。

◎ 自らを灯明とし 自らを依処とし他人を依処とせず 法を灯明とせよ。

◎ 起きて一畳寝て半畳 足らざるを以て満足す。

◎ 迷える者は道を問わず 光のない生活には方向がない。

◎ おなじ太陽の下の旅なれど 曇る日も有り晴れる日も有り。

◎ からっぽの容器は一番大きな音を立てる。




薬が有るからと言って毒を飲むな

薬が有るから大丈夫だと言って

毒を飲みなさいとすすめるのは

あってならないことです。

「罪を犯しても阿弥陀様の救いが有るのだから往生できる。

だから悪い事をしても大丈夫」と悪をすすめる門弟を戒めたのが親鸞聖人の上の言葉です。

アミダさもの救いを「薬」悪行を「毒」にたとえています。

薬が有るからと言って毒をすすめてよいはずがありません。

またすすめられたからと言って毒を飲む人もいないでしょう。

だから「悪行はならぬ」と親鸞聖人は断じます。

私達の生活を振り返ってみましょう。

『よく効く薬有るから、お酒を飲み過ぎても大丈夫』と薬をポケットにのぞかせて

暴飲暴食をするようなものです。

親鸞聖人なら『薬を片手にお酒を飲むような愚かなことは止めなさい』

と、諭すことでしょう。

親鸞と浄土真宗  
早島大英著 三笠書房刊 より



◎ み名を称うれば、ほとけはつねに、われらに来たりたもう。

◎ 生きながら地獄に落ち、生きながら如来に救われる。

◎ 抱かれて有るとも知らず、愚かにも、われ反抗す大いなる手に。

◎ 人の恐れは愚かからくる。

◎ 悩みを突き抜けて喜びが有る。

◎ 素直に人の言う事を聞く人は最も力のある人である。

◎ 小心者は、頑張って人の言う事を聞こうとはしない。

◎ご恩を知って、その御恩に報ゆる者は、仏と同じ功徳行をしている者である。

◎ 心の苦痛は、肉体の苦痛よりもっと悪い。

◎仏のみ名は、全ての迷いを破り、すべての願いを満たす。




一年の感謝

一年の締めくくりに、感謝と言う事を考えてみたいと思います。

感謝できるような人は幸せで、私だって感謝したい、しかし、感謝する種が無いのだから

仕方がない。世の中は不景気で会社はつぶれ、失業者は増えるばかり、そうなれば

今まで以上に自分の事を考えるようになってしまう。

.正直者がバカを見るの言葉の様に自分だけが貧乏くじをひいてしまう。

感謝どころか不満だらけの一年だったと言われるお方がありそうです。

でも感謝の種を自分の外に求め探したらどんな人でも、一生かかっても遂に

見つけることは無いでしょう。感謝の種は自分自身の中に有るものだと思います。

浄土真宗の生活信条に『常にわが身を省みて感謝のうちに励みます』とあるのは味わい深い事です。

この言葉の全段は「御仏の光を仰ぎ」とあります。

アミダ仏の智慧と慈悲の光に照らされてみると、私の本当の姿が徐々にでも見えてきます。

そうすると、この私を生かし,護り育て、支えてくださる限りない働き、人、物ことのおかげが

目の前に広がっている事に気づくのです。そこの感謝が有ります。

そして、それに対し私のしてきたことの何と自分勝手であったことか、

周りの人がつまらなく見えたのは鏡の中の自分で有ったことがわかるのです。

思い上がって愚痴をこぼしてばかりいた私の、自分にも周囲にも前進をもたらさない

不平不満ばかりの生活から離れ、感謝のできる思いにたどりついたことは、自分の間違いと

世の中の間違いに気づきそれを少しでも正していくおかげに報いる道こそ

建設的人生の第一歩です。


◎真実は沢山の言葉を必要とはしない。

◎ 南無あみだぶつはそれは私の親の名 親が私を呼ぶ声

◎ だれにもにたようななやみがあり 誰にも隠された涙がる

そこにかみしめられる人生の味 ひそかなるみほとけの声

◎ 経験こそは生きた良師である

◎ 物で栄えて心で滅びる

◎ ものごとには因果がある タナからボタ餅の考え程人の努力を無にするものはない

◎ おなじ太陽の下の旅なれど 曇る日も有り 晴れる日も有る

◎ 迷えるものは道を問わず 光の無い生活には方向が無い

◎ 合掌礼拝なきところに 真実の宗教は無い

◎ み仏は 衆生の苦悩有る所にやどり給う




他人様

他人様に認めてほしい

他人様にほめてほしい。

他人様に慰めてほしい

だけど他人はそうあまくはない。他人は私を嘲笑する。叱る。そして時には批判もするし

相手にしない時も有る。

自分は他人様とどう付き合ったらいいのだろうか。

他人は自分のために生きていないことは確かと知る事だ。


親鸞聖人にとっての親子とは

「子どもは親の宝である」

「子どもは夫婦のカスガイである」

子どもは親にとって首かせである」

三つともそんな気がするが、聖人にとっての親や子は、そんな存在ではなかったようだ。

親であろうと子どもであろうと人間的な恩愛の対象では無かったようだ。

一切の有情は皆父母兄弟(同朋・同行)

みんな同じように成仏しなければならない仲間であった。



◎ 心を平らにせよ、心が平らになれば、世界の大地もことごとく平らになる。

◎ 有難い、もったいない、済まないと言う事を忘れている人は一番不幸者だ。

◎他と共に生きる事が、自らを生かす道である。

◎ 先に生るる者は、後を導き、後に生るる者は先を訪ねよ。

◎ やわらかいマリは、かたい鉄球より高くはねる。
人間の本当の強さは自己の弱さを知る底から出て来る。

◎ 常に不十分に満足する、その心構えが大切である。
いたずらに満足をむさぼる者は生命がみじかい。

◎人の悪きことは、よく見ゆるなり、わが身の悪きことは覚えざる者なり。

◎ 人を殴打するのもこの手、仏を拝むのもこの手、いずれを選ぶや。

◎他人が自分を見下げていないかと思うのは、
そう言う人を見れば自分が見下げているからである


◎ 悩みを突き抜けて、歓びが有る。




星は見えない時でも光っている

寒い夜空に、シリウスが光っています。月の出て無い晴れた夜には、一層キラキラ輝いて見えますね。

でも星は何時も見えるわけでは有りません。星は昼間には見えません。

夜になり周りが暗くなって、初めて見えてきます。

しかし、昼間に見えない星は無くなってしまったのでしょうか。そうでは有りません。

星は、昼間でも輝き続けています。まわりが明るいから見えないだけなのです。

仏さま(アミダさま)は私達には見えません。

見えないからいらっしゃらないのでしょうか?いいえ仏さま(アミダさま)は

いつも私とご一緒して下さっています。

私達はずっと仏さま(アミダさま)の事を考えることは出来ません。

それどころか、仏さま(アミダさま)の事はすっかり忘れて過ごしています。

しかし、仏さま(アミダさま)は昼間は見えない星の様に、いつでも私のことを心配し

見守り続けて下さっています。

ほとけさまのお話より



◎ 喜んで事をなし なされたことを喜ぶ人は幸福である。

◎ 汝の過去を知らんと欲せば、汝の現在を見よ。汝の未来を知らんと欲せば汝の現在を見よ。

◎ 十人の子を養う父が有る。一人の父を養いえない十人の子も有る。

◎ 心の苦痛は肉体の苦痛よりも、もっと悪い。

◎ 苦痛の原因を他に求めず 自己に見出すのが仏教の立場である。

◎ 人間は自分に都合のいい人を良い人だと言い、自分に都合の悪い人を悪い人だと言う。

◎ お前は悪いがわしは善いといえるかどうか。

◎ 仏の慈悲に生きるものは よく眠る。

◎ 阿弥陀仏のみ名は悪を転じて徳となす、正しい智慧である。



人生の舵取り

いつも仏さまの教えを聞かせて頂いていますが、幾つになっても死にたくはありません

と言う人が有りますが、仏さまの教えは死にたくなるために聞くのでしょうか。

人間は生物ですから、生存欲、生存本能を持っています。だから死にたいとおもうことは

生物の基本を失ったと言う意味で正常ではありません。広義の病気でしょう。

人生の大事は病気を治して考えるべきでしょう。

人生は無常ですから死にたくても、死にたく無くても寿命が来たら間違いなく誰でも死にます。

それがいつどこで何の理由で死ぬかはその時にならなくてはいくらかんがえてもわかりませんし、

望んだことが出来るとも限りません。

出来ないことはしない、考えないのがよろしい。それを無理やりしようとするから

全体のバランスが崩れます。それが病気です。

親鸞聖人も「名残惜しく思えども娑婆の縁尽きて、力なくして終わる時にかの土へは

まいるべきなり」と言われています。(歎異抄九条)

考えられるのは、その時までどう生きるかです

お念仏(なもあみだぶつ)申しご恩報謝することは出来るのです。

人生の舵取りの方向を誤らぬようにするのが仏法のお聴聞(仏さまの教えを聞かせて頂く)なのです。






◎ 人の幸福を念ずる人にのみ 真実の幸福は宿る

◎ 自己を知る者は常に正直である 自己を知らぬものは常に不正直である

◎ 不思議なものは沢山ある しかし 人間ほど不思議なものは絶無である

◎ 散る時が 浮かむ時なり 蓮かな

◎ お前が悪いがわしは善いと 果たして言えるかどうか

◎ 死ぬべきものが今生きている 自分の今日をよろこびたい

◎ 恩を知るは大悲の本なり 恩を知らざるをば 畜生と名づく

◎ 腹を立てる姿は醜く 忍耐の姿は美しい

◎ 長生きをしようと思うならば 若い時からその計画を立てて生きよ

◎ 富める人は 有るものに執着し 貧しい物は 足りないことに苦しむ




苦しみを軽くしてくれるのが信仰

真宗は加持祈祷や怨霊封じなどは一切しない。

だから真宗は信者が減るとも言われているがそれは真実ではない

不幸や苦労から逃げたり、追い散らそうと思ったって

苦しみは無くなるものではない。

苦は苦としてもらいきる時に苦は無くならないけれども軽微となることを

生活の中で体験したい。


信心と信仰

信心と信仰は似ているようですが、少し違います。

信心する人は除災招福を神仏に一方的に頼もうとするのです。

祈ったからと言って災いが除かれ福が来るのではないのに

信仰する人は苦を貰いきろうとする人です。

授かった苦をもらいきれば、必ず次の苦は少なくなり、福も訪れてきます。

信仰とは仏さまからのお慈悲を信じ仰ぐことです。




『二十代』での話。

自作の誌『花』

ぼたんの花が咲きました

すばらしい彩に咲けました

あの娘はきっと

ごめんなさいといっているのだ

そうでなくて

あのように清らかに咲けるものか


教室で先生は若い女子学生にこの詩の感想を聞いたそうだ。

「ごめんなさい」ではおかしいのではないか。

「ありがとう」の方がふさわしいと言う意見が出たと言う。

「そうかじゃ花が咲いたのは、ひとりのちからかな?」

「葉、江田、茎、根の働きが有ります」

「それだけか?」

「土、水、太陽、肥やしのはたらき・・・・・・棒も有る。支えてくれる棒。それは友達のはたらきのこと」

「「なるほど。そのことが、咲きましたから酒真下への深まりなのだね。

で、娘とあるのははなのことだけ?」

「むろん私自身の意味も有ります」

「じゃあなたが二十歳になって、美しく咲けたのは、

まずご両親や周りの人たちの働きだね。それに対してあなた自身を

ふり返ったら(ありがとう)か(すみません)かどっちがほんとうの気持ち?」

あっ、先生。やっぱり(済みません)の方がぴったりでした」。

こんな念仏の心を語りかける先生に教わる娘たちがうらやましい。


◎ 朝の無い夜は来ない

◎ 子どもは親の鏡である

◎ 善も一生 悪も一生

◎ 反省は進歩の宝である

◎ 欲の袋には底が無い

◎ 鏡は心のありさまをうつす

◎ 合掌は家庭教育の基本

◎ 気にしても苦にするな

◎ 仏具を磨くのも心の修行

◎ 怒れば地獄 貪れば餓鬼 恥を知らぬは畜生




山の道・町の道

バスで峠の山道を越える。曲がりくねった狭い道を、バスは車体一杯に走る。

むこうから下りのバスが来る。車は停車し、車掌さんの誘導でバックし、上手にすれ違って

やおら発車する。運転手さんはおうような身振りで、たがいに会釈を交わして、ハンドルを切る。

トラックが来ても、コンバインが来ても、刈り草を積んだリヤカーでも、同じ繰り返しだ。

ふと、都会の雑踏をおもう。辻から走り出る車、その前を突っ切る車、追い越しざまに

割り込んでくる車。 互いの優先を主張してクランクションを鳴らし、怒号する。

たちまち車の数珠つなぎで、交通はマヒ状態となる。

広くてピカピカの舗装道路も、我勝ちにひしめく人の手で道が道でなくなってしまう。

狭い石ころ道でも行く人の心ひとつで立派な道たらしめる。

道を道として生かす心とはどういう心なのか。

道が道でなくなるときには、必ず無理がそこにある。

無理が通れば道理は引っ込む。

自分が正しい、自分さえよければそれでいい、

自分の思い通りにならないと、我慢がならないと言う心。

それは道理を無視し、道理を踏み破る心。

そう言う自分に気づかされて、「あ、道理に外れていた自分だった」とうなずく心。

それが道を道として生かす心のいとぐちなのだ。

無理が通ればどうりはひっこむ。

無理を気付けば道理にしたがう。

ゆずり合う心。 助け合う心。今の自分に欠けてはいないか。一度振り返ってみたいものです。



◎ 釈迦の説く因果応報何事も善因善果悪因悪果

◎ 食事の心「食」という字は人を良くすると読む

◎ 大切なことは「他を愛する」事だ これを幸せと言う

◎ ただ一つの命 たった一度の人生を大事にしたい

◎ 良い事はおかげさま 悪い事は身から出たさび

◎ 悪い事は早くやめ善い事は早く実行し続けよう

◎ あんたが悪いと指差す三本の指は自分に向いている

◎ 偉い人かどうかは他人が決めてくれること

◎ お寺は心のふるさと 命のふるさと 先祖のふるさとです

◎ 「かんしゃく」のくの字を捨てて日を過ごせ『感謝』



太陽や大地や水の恵みを受け

お米や魚の命をいただき

生かされて生きている私

お米や魚を食べると言う事はお米や魚の命をいただくということ。

ほかの生き物の命をぎせいにして自分が生かされている。

その食べ物は、太陽や、水や、空気や大地のお蔭で育つ事が出来た。

だから、何から何まで宇宙万物一切の恵みを受けた、そのおかげさまで

私は今生かされている。

しかし、普段はそのことを忘れてしまっている。与えられている命を我が物とし

「我が命」を生きていると錯覚をしている。

この命は私のものではない、宇宙万物のいのちなのだ。

そのことに気づき感謝する気持ちが南無阿弥陀仏。

 

◎ 信仰は人の善き友であり この世の旅路の糧であり この上ない富である。

◎ 青春は人生にたった一度しかない

◎ 心労は人生にとって敵である

◎ 人生における無上の幸福は 我々が愛されていると言う確信である

◎ 貸した方は借りた物よりよく覚えている

◎ 先祖を敬う者は 子孫から敬われる

◎ 両親を大切にしましょう

◎ 兄弟姉妹は助け合いましょう

◎ 世の中人のために働きましょう

◎ 社会のルールを守りましょう



タンポポから人生の真実を学ぼう

タンポポは大地にしっかり根をしっかり根を下ろしているから

どんなに踏みつけられても、また食いちぎられても死に絶えることはりません

タンポポの花は小さな花ですが、明るく美しく咲いています

決して小さいからと言って卑屈にならず

床の間に飾られることが無いかと不平不満を言いません

大きく見せびらかす事も無く空にまっすぐ向かって

自然の恵みのままに咲いています

このタンポポと言う野草から強く明るく生きる道を教えられます

タンポポのような人生でありたいと心から願います


◎ 我も人、人も人、みな同じ人。

◎ 生かされて生きる命を大切に。

◎ 受けて忘れず 施して語らず。

◎ 美しさとは働いた後の汗の顔。

◎ 親と子が共に合掌仏前に。

◎ 薬も多量にすぎると毒になる。

◎ 心に花を先ず合掌の姿より。

◎ 言葉遣いは心遣い。

◎ 小さな幸せを大きく喜ぶ。

◎ 手を合わす心で 小さな親切。



福の神と貧乏神


ある家に、一人の美しい女が着飾って訪ねてきました。その家の主人が「どなた様でしょうか?」と

尋ねますと、その女は「私は幸福を与える福の神です」と答えました。そこで主人は喜んでその女を家に上げげ

手厚くもてなしました。 そのすぐ後から今度は粗末な身なりをした醜い女が入って来ました。

主人が「お前は誰だ?」と尋ねますと、その女は「私は貧乏神です」と答えました。主人は驚いてその女を

追い出そうとしましたところ、その女は「実は先ほどの福の神は私の姉なのです。私達姉妹はいつも離れた

事は有りません。ですから「もし私を追い出せば姉もいなくなりますよ」と言いました。

その女が去って行くとその言葉通りにあの美しい福の神の姿も消え去って行きました。

これは『仏教聖典』と言う本に載っていた話ですが、全くその通りだとは思いませんか?

善い事も有れば、悪い事も有る。幸いも有れば災いも有る。それが私たちの人生だと思われ

ませんか? 善い事ばかりの人生も無ければ悪い事ばかりの人生も有りません。

ですから、少し善い事が続くからと言って有頂天になってのぼせ上がるのも危険なことですし

また、少し悪い事が続くからと言ってむやみに落ち込んで無気力になることも、これもまた、

馬鹿げたことです。 善い事が続いている時も、悪い事が続いている時も、是非、今一度このお話を

思い出してください。


◎ 過去が花と咲いている今 未来の蕾で一杯の今。

◎ 自然の春は太陽が呼び 社会の春は人間が創る。

◎ 感謝で暮らす生活には 不幸が入る余地がない。

◎ 十方衆生みな救われて 私ひとりの南無阿弥陀仏。

◎ 人生は二度ない しかし 出直すことは出来る。

◎ 先祖を粗末にすれば 自分が粗末にされる。

◎ 先祖をよく敬う人は 子孫の事もよく考える。

◎働きは最良の健康法であり 長寿の秘法である。  

◎ ろうそくは 身を炎にして 暗い闇を照らす。

◎ 和顔愛語 おはよう ありがとう ご苦労さん。



幸せの根源とは

幸せの根源とは何かを考えた事が有りますか。

私達が幸せと感じる瞬間の事を考えてみましょう。

どう言う時に一番強く幸せを感じるでしょうか。

それは多分生きていると実感したとき、生きていて良かったと思えるとき

そして、自分の中にある命が輝きを増したように感じる時ではないでしょうか

私達は命が有ること、生きている事を当たり前だと思って生活しています。

『手が動く足が動く』=当たり前 『腹が減る食べる』=当たり前

『疲れた眠る』=当たり前 すべて当たり前だと思っていて

『命が有る
おかげ』とは気が付きません。

命が幸せの根源であることに中々思い至りません。

当たり前が無くなれば途端に幸せの泉が枯れてしまうのです。

私は人の幸せはどんな境遇にあるとも、どういう仕事をしていようとも

この『命の尊さ』を見つめる事から始まると思うのです。



◎ 我も人 人も人 皆同じ人

◎ 生かされて生きる命を大切に

◎ 受けて忘れず 施して語らず

◎ 美しさとは働いた後の汗の顔

◎ 恩は切るもの きせないもの

◎ 薬も多量にすぎると毒になる

◎ 心に花を 先ず合掌のすがたより

◎ 心のかなめは”おかげさま” (感謝の心)

◎ことばづかいはこころづかい

◎ 最後まで頼れるのは自分だけ




不運を嘆いている前に

やることを やらねばならぬ

他人の家庭は外から見ると幸福そうですが、

内に入ってみると各家庭がそれぞれ不幸をかかえているものです。

そしてそこに「やっかみ」 「ねたみ」 「あせり」が生じてくるものです。

これはよくないことです。実はこれが本当に不幸なのです。


死を我がこととしてどのように受け止められるか、

その度合いの強弱に比例して今日生かされている事の意味も

喜びも実感としていただく事が出来る。

そこにはおのずから授かったこの一日の生き方も見えてくると言うものです。



◎ ウソ聞いて喜んで 本当聞いて腹立てた

◎ お蔭さまの心でてらせ 明るい社会

◎ 俺もお前も仏に成る 南無阿弥陀仏

◎ 苦しく悲しい時の辛抱 幸福な時の合掌

◎心を耕し養分を与える それが信仰です

◎ させていただける 己が身をよろこぼう

◎ 全世界を知っても 自己を知らぬ者あり

◎ 焚くほどは風が持ち来る落ち葉かな

◎ 手を合わせ心を合わせて しあわせに

◎ なくてはならぬ人 そんな人になりたい




物の見方 考え方.

私達の日暮らしでの物の見方 考え方はたいがい反対逆さまに

なっているようです。逆転メガネをかけて暮らしているのかもしれません。

仏さまがごらんになると逆さまだとおっしゃる。

おのれの欲望だけで考えて他人の事は考えない逆さま

おのれの人生を見つめずして 今日一日の事に明け暮れる逆さま

お蔭さまよりお金さまという逆さま

足ることを知らずもうちょっと もうちょっととむさぼる逆さま

一ペン仏さまのメガネをかけて自分を見直さないといけませんね。

これは私のこと




◎ 微笑みは 暗の夜を照らす 月明かり

◎ ほめ合う所に進歩と向上が有る

◎ 世の中に無駄なものは何一つない

◎ 楽あれば 苦が顔を出す娑婆世界

◎ いろいろの自分が見てる この「私」

◎ 老いも死も他人事ならず 己が道

◎ 希望に生き 愉快に働き 感謝に眠る

◎ 幸 不幸 運 不運は自分が作るもの

◎ 心はデリケートだから大切にしたいなぁ

◎ 自分の経験した事を話せば感銘を得る



思い通りにならぬ世の中

思いを超えた物を

思い通りにしようとするから

この世が地獄になる

お金がもっと欲しいと言う願いは、努力すればそれなりに叶えられる

しかし、重い病気になって、なんでこんな病気になったのだろうと

愚痴ってみても病気は治らない

また、死ぬのはいやだと思ってみても自分の自由にはならない

年をとるのはいやだと思っても月日と共に否応なく年を取る

老 病 死は人の思いを超えたものである

それを忘れて私の力で何とかしよう 何とかできると錯覚するから苦しむのです

人の思いを超えたものは 仏さまにまかすしかない

大慈悲心の阿弥陀仏なればこそ 助かりようのない凡夫を

憐れみを以てお救いくださるのです



◎ 壁の向こうの隣人は、海の向こうの兄弟に勝る。

◎ 言葉は矢ではないが、心を突き刺す事が出来る。

◎ 節約すれば儲かり、繕えばボロを着なくても済む。

◎ どんなに首を伸ばしたも、頭より高くはならない。

◎ 目には気をつけよ、口よりもよく心を映しだす。

◎ 最も美しい花が、最も香りが良いとは解らない。

◎ 山が来なければ山の方へ行かねばならない。

◎ 「ハイ」と言う答えは、耳に快い。

◎ 人にはやさしく、己にはきびしく。

◎ 仏心より、愛の言葉が湧き生ずる。



め ぐ み

太陽や大地や水に恵みを受け
お米や魚の命をいただき
生かされて生きている私
お米や魚を食べると言う事は、お米や魚の命を頂くと言う事。

ほかのいきものの命を犠牲にして自分が生かされている。

その食べ物は太陽や水や空気や大地のお蔭で育つ事が出来た。

だから、何から何まで宇宙万物一切の恵みを受けた、そのお蔭様で私は今生かされている。

しかし、普段はそのことを忘れてしまっている。

与えられている命を我が物とし「我が命」を生きていると錯覚している。

この命は私のものではない。宇宙万物のいのちなのだ。

そのことに気づき感謝する気持ちが南無阿弥陀仏


◎ 
いそしみはげむ者は 常に楽しく安らかなり

◎ 美しい花が咲いた 隠れた根のおかげです

◎ 美しい花のかげには かくれた根の力が有る

◎ お金の亡者はたまればたまるほど汚くなる

◎ 限りなき光は 限りなき闇を照らし尽くす

◎ 暮らしに光を求めて 自らの行動をつつしむ

◎ 心を耕し佛種をまけば 思いやりの芽がでる

◎ 罪業深重 煩悩具足とは この私のことです

◎ 人生に定年はない 古稀も八十寿もみな現役



気になる

昨日の事が気になる

明日の事が気になる

今の私はいない

過去の失敗を、いつまでも悔やんでくよくよする。

明日の仕事は初めての事なので、うまくできるか不安で仕方がない。

こんなことでは、このいまの生活に身が入らない。

過去の失敗は、何が原因か十分に反省して、これからの仕事に生かせばいい。

失敗したことをいつまでも悔やんでいたも、覆水盆に返らずである。

初めて取り組む仕事は、今から出来る限りの準備をすれば良い。

心配しても物事がうまく運ぶわけではない。

今日一日、自分が出来る限りのことを尽くせば、たとえ失敗しても後悔は起こらない

毎日毎日を、今日一日の命と思って、生きる事が大切だ。


◎ 何不足、自分で作れぬ物に生かされて。

◎ 人間は生かされて生かして生きている。

◎ 人には厳しく、自分には寛容な人が多い。

◎ 本当の事情はその人でないとわからない。

◎ 丸い心こそ仏の心。心安らかな一日を。

◎ 無理なく無駄なくむらなく暮らせ。

◎ ローソクは自分の身を減らして他をてらす。

◎ 私に「親切」をさせてくれてありがとう。

生きている人が迷うから、死んだ人が迷う。

◎ 生きてます 生かされています この生命。




おかげさまで

お蔭様で、生かされて生きている見えない「かげ」の力で

「お蔭様で、元気にやっております」

よく挨拶に使う言葉です。「かげ」に「お」と「さま」を付けて尊敬している。

「かげ」というものは見えないものであります。その見えないものに感謝しているのです。

では「かげ」と言うのは何でしょう。

私たちが毎日食べているお米は農家の人が田植えをして肥料をやり雑草を取り、

初めて収穫できるもの。

農家の人のお蔭です。 しかし 、それだけではありません。

太陽の光も必要だし水も空気も必要です。

それらの目に見えない力がはたらいていて、私たちの食料となあるのです。

目に見えないはたらきに感謝する言葉

それが「おかげさま」です。

私達は目に見えない大きな力で生かされて生きているのです。



◎ 安らぎは自分のこころより。

◎ 雪の下にも春の芽は有る。

◎ 理屈を言うより汗を流そう。

◎ 生きているうちに行ける寺。

◎ お願いする前にまずお礼。

◎ 今日を頑張る、そして、今。

◎ 快い汗を流して頑張ろう。

◎自分の点数て何点だろう。

◎ 先祖ありて今の自分が有る。

◎ 父母の拝む姿を見て孫育つ。



趣味と老後

歳をとって趣味のないのはみじめだといい、

中年以後の人が、盛んに公民館や文化教室に通って楽しんでいる。

自我を楽しむこともよい事だが、しかし、もっとユニークでしかも取り組みやすい趣味が有る。

それは、他人と深く多く交際する事だ。

年齢のちがった人、職業のちがった人男女性別のちがった人、

などとつとめて語り合い、親しく触れ合う事だ。

みんな同朋同行だもの。



不可思議な生命誕生


人間としてこの世に生を受けると言う事は大変難しい事である。

母親からは生涯約四百の卵子が、父親からは約六千億の精子が出る。

すなわち、数多くの生命誕生の可能性が有るわけだ。

その両親から、現在は平均して一・八人の子どもしかこの世に出てこない。

この世に生まれた生命の誕生は誠に稀なこと、ふしぎなことなのだ。

人身受け難し・・・・・・・ああ不思議な事よ。




◎ 「ハイ」と言う答えは耳に快い。

◎ 人にはやさしく己にはきびしく。

◎ めざめよう すばらしいおのれに。

◎ 礼儀が乱れていると、心も乱れる。

◎ 言葉は精神の脈拍である。

◎ あきもせず 同じ失敗の繰り返し。

◎ いたわりは 人にも物にも草木にも。

◎ 一日は朝の「おはよう」から始まる。

◎ 嬉しい時も悲しい時もみ親(仏)の袖にすがりなん。

◎ 亡き人は遠くに居給わず 常に我がそばにいて我を守り 導き給う。




十人の親を養う子がいる

十人の子を養う親有り 一人の親養わぬ十人の子有り。

これは約3000年昔のお釈迦さまの言葉である。

ひとりの親をも養わない子がいる。

他人の子まで養う親がいる。

他人の親まで養う子もいる。

ひとりの親も養わない子は理屈っぽく養わない言い訳をしたり、

小さい孝行を大きく誇張して物を言う。

他人の子や親まで世話をする人は、案外口数少なく

さりげなく世話をしている。


情けは人の為ならず

人を楽しませる人は必ず、人から楽しみを受ける。
人に親切にすると必ず親切にされる。
人に施しする人は、いつかはその人ばかりでなくとも他からの施しを受ける。
他からの見返りを求めて施しをするときは情けは帰ってこない。
人に施しをしないのに施しを求めたり受けたりする人は
特権階級か支配者だけである。


◎ ご先祖さま 拝む姿に「幸」宿る。

◎ 知りながら つい忘れがち 親の恩。

◎ 他人を無視すれば、自分もむしされる。

◎ 作る身になって食せば、みんな栄養。

◎ のびるほど 下に手をつく 柳かな。

◎ 稔ほど頭を垂れる稲穂かな。

◎ 一粒の米を軽んずる者は 心貧し。

◎ 流れる水は腐らない、日々これ法悦。

◎ 人の世は、一歩一歩上る石段の如し。

◎ 人には優しく、己には厳しく。




おかげさま

おかげさまで

生かされて生きている

見えない『かげ』の力で

「お蔭様で、元気にやっております」

よく挨拶に使う言葉です。『かげ』に『お』と「様」を付けて尊敬している。

「かげ」というものはみえないものである。

その見えないものに感謝しているのです。

では『かげ』と言うのはなになのでしょうか。

私たちが毎日食べているお米は農家の人が田植えをして、

肥料をやり雑草を取り、初めて収穫できるもの、農家の人のお蔭です。

しかしそれだけではありません。

太陽の光も必要です。水も空気も必要です。

それらの目に見えない力がはたらいていて、私達の食糧となるのです。

目に見えないはたらきに感謝する言葉、それが「おかげさま」なのです。



◎ 見えそうで見えないものは
、自分の短所と欠点である。

◎ みんな仲良し仏の子、仏さまに手を合わそう。

◎ 悲しい時は泣くもよし、み仏さまが涙を拭いて下さる。

◎ 健康管理も信仰も、各自銘々のものである。

◎ 先祖は生の始めなり。父母は形の始めなり。

◎ 米一粒、水一杯、紙一枚の中にも仏様の生命が宿っている。

信仰に深浅はない。素直で、明るく、楽しい物でありたい。




善人と悪人

人は自分に都合のいい人を善人と言い、自分に都合の悪い人を悪人と言う。

そう言う人は他人にどう言われているのであろうか。

きっと多くの人に悪人と言われているかも知れない。

善人はいつも人の都合の良い事を考える人だと言われる。

自分に都合のいいことだけを考えていると他人に疎んぜられる。



頭・気・心

他人と付き合いするのに、頭をつかう、気をつかう、心をつかう。

誰もが経験する気配りの三条件だ。

頭だけをつかうと冷淡になる。

気だけつかうと他人行儀になる。

心だけをつかうと息苦しくなる。

頭・気・心をつかう事は必要な事だが、三つのバランスが大切なのだろう。

また使いすぎないように、使い足りないように気を付けよう。



◎ 幸福はまず何よりも健康の中にある。

◎ こだわらない心が長寿に通ずる。

◎ 病気になるまで健康の値打ちはわからない。

◎ 陽気でいることが、肉体と精神の最上の健康法である。

◎ 初春を迎えた喜びはまずみ仏さま、ご先祖さまへの感謝から。

◎ あなたの名前には両親の願いがこめてある。

◎ 志を立てるのに遅すぎると言う事はない。

◎ どう生きどう死ぬかが一番大事なことだ。

◎ 泣いて暮らすも一生、笑って暮らすも一生。

◎ 自らを幸福と思わない者は、幸福でない。




お正月

あけましておめでとうございます。

私たちのお寺では1月1日から1月7日までを修正会(しゅしょうえ)と言っています。

月や星にロケットを飛ばす時、軌道修正と言って、舵を正しく取り直しますが、これと同じように

修正会も、私と言うロケットが正しく仏さまの国に向かうように軌道修正をする日なのです。

一年間を振り返って、私たちの生き方が間違っていなかったか、正しくお浄土に向かって歩いてきたかと

舵を取り直すのです。

大晦日のテレビを見ていますとどこのお寺もお宮も初詣での人であふれています。

「家内安全」と言って、自分の家のものだけがケガも病気もしませんようにとお願いしたり

「今年はいいことありますように」とか「商売が繁盛しますように」と頼む人が多いのです。

「勉強しなくても良い成績が取れますように」とか「宝くじが当たりますように」などと勝手なお願いを

するひともあります。何処に行ってもこんなお願いを聞いて下さる神様や仏さまはありません。

私達は楽や得だけを欲しいと思いますが、苦と楽、損と得とは紙の裏表のようなもので離れられないのです。

暑い夏を過ごしたから涼しい秋が嬉しいし、寒い冬を耐えてきたから暖かい春が待たれるのです。

ずっと、春や秋のように良い気候ばかりですと、うれしいとは感じられない事でしょう。

損は嫌いだから、苦は嫌だからといっても、損をし苦しみを味わってこそ、得や楽しさが分かるのです。

丁度板の表だけを残そうと思って、裏を削っているのと同じです。

いくら削っても表のある間は裏は裏です。

裏が無くなった時には表も有りません。片方だけと言う訳にはいかないのです。

仏さまの智慧を頂くと、自分勝手なお願いの間違っている事がよく分かります。

私たちが仏さまにお参りするのは、何かお願いをするのでは有りません。

大自然に守られ生かされている身を感謝し、年の初めの修正会には都合の良い事ばかりを求めている

自分の心を見つめて仏の教えにてらし、生き方の舵をとりなおしたいものです。


ほとけの子  青柳田鶴子著 法蔵館刊より




◎ 幸福はまず何よりも健康の中にある。

◎ こだわらない心が長寿に通ずる。

◎ すべての人にその個性の美しさが有る。

◎ 病気は千もあるが健康は一つしかない。

◎ 病気になるまでは健康の値打ちは分からない。

◎ あらゆるものは互いに生かし合い
互いにあらゆるもののおかげで生かされている。

◎ 志を立てるのに遅すぎるということはない。

◎ 心の眼が開けるのは苦悩にであったとき。

◎ どう生きどう死ぬかが一番大事なことだ。

◎ 種を蒔いたら刈り取らねばならない。



自分のこころ

自分の事は、自分が一番よく知っていると思っていますが、仏さまの教えを聞いていると、

一番わかりにくいのが自分だと言う事に気が付きます。私たちの目は外に向かってついているので、

外の事はよく見えるのです。

「あの人はよくばりだなぁ」とか「あの人はずるいなぁ」とか、人の事はよく目につきます。

でも内側を見る目はついていないので、自分を見ることはむずかしいのです。

ちょっと都合が悪いので見る気がしないのかも知れません。何故って、自分の事がよく見えると、

何ひとつえらそうにできる事が無くなるからです。

だいいち、今着ている服、はいている靴、住んでいる家、食べるもの、このどれを考えても、

自分で作れるものは有りません。

みんな大勢の人たちが働いて作って下さるお蔭で、何不自由なく暮らせているのです。

私のお金で買ったと言っても物を作ってくださる人がいないと買えません。

えらそうにできないだけではないのです。もっと都合が悪い事に、目を閉じて心の中を覗いてみますと、

嫌な事がいっぱい見つかるのです。

お友達が珍しいものを持っていると、自分も欲しいなぁと思いますし、テレビのコマーシャルを見ても、

すぐに欲しくなる心がいっぱいです。ちょっと何かの成績が上がると、いばりたくなるし、

妹や弟には、ちょっといじわるをしてやりたい心が見えるのです。

いつもは外を見る目に邪魔をされているから見えにくいだけなのです。

親鸞聖人は「自分の心の中を覗いてみると、蛇やサソリのようにいやな心がいっぱい詰まっています」

と、はっきりおっしゃいました。

いつもえらそうにしている人は、自分の心がわかっていないのだと思います。

自分の心が解ると、よくばりの人を見ても、いじわるの人を見てもえらそうにする人を見ても、

怒りん坊を見ても、みんな人の事とは思えません。

自分も同じ心が潜んでいるからです。

そして、いつでも「自分さえよければいい」と言う心がいっぱいなのです。

なかなか見えにくい自分の心を正しく見つめる事の出来る人は素晴らしい人です。


青柳田鶴子著 ほとけの子 法蔵館刊より


◎ 生ずるも独り 死するも独り

◎ 笑いは良き血をつくる

◎ 心広ければ体豊かなり

◎ 安眠は心労の最上の療法である

◎ 自分で薪を割れ 二重に温まる

◎ 立って半畳 寝て一畳 天下取っても二合半

◎ 仏の心と言うものは 大慈悲そのものである

◎ おのれを忘れて 他を利するは慈悲の極みなり

◎ 善人なおもて往生とぐいわんや悪人をや

◎ 人間に生るること大きなる喜びなり



赤い血
私は昨日ジュースの缶を開ける時、アッと言う間に指先を切ってしまいました。

赤い血がポタポタ流れました。皆さんも血を流した事が有りますか?

爪と髪の毛以外はどこを突いても血が出ます。

切ったり突いたりしなくても、手のひらを太陽に透かして見ると赤いのは血の色です。

だから昨日指を切った時赤い血が噴き出したのです。

手首に触れてみるとトクトクと脈を打っているのが解ります。

これは心臓から押し出された血がそこを通っている証拠です。

この血が、私たちの体の隅々まで流れて、酸素や栄養を運んでくれています。

一人の人間の血管を一本にのばして計ってみると、なんと九万キロメートル有るそうです。

この沢山の血管に全部血が流れていないと、そこは冷たくなって腐って行きます。

こうなると、手でも足でも手術して切り取らないと死んでしまうのです。

体が暖かくて、思った通りに動くのは血が循環しているお蔭です。

大ケガをして出血が止まらなければ、命はなくなります。

この大切な血はいったいどうしてつくられるのでしょう。

それは、私たちが毎日「いただきます」と言って、何気なく食べている食べ物が

この血をつくってくれるのです。お米のご飯も、牛乳も、体の中に入ると、大切な血に

なります。今夜はカレーだとしますと、この間まで牧場で遊んでいた牛がその命をくれたのです。

畑で太陽を浴びて葉を繁らせていたニンジンやジャガイモもその命を私にくれたのです。

お魚のおかずだとすると。昨日まで海に泳いでいたイワシやイカやカレイなどが自分の大事な

命を私達にくれているのです。これら沢山の命を頂いて出来た血が、いま私たちの血管を

ながれています。この体があたたかくて飛んだり跳ねたりできるのはそのお蔭です。

ものをたべるときには生き物の命を頂きます「いただきます」と手を合わせて、

頭を下げずにはおられませんね。

分かっているようでつい当たり前と思っています。もったいないことですね。


◎ 花にはかおり、人には持ち味。

◎ 求めんと欲せば、まず与えよ。

◎ 山見えぬ山ふところの栗林。

◎ 喜びを糧とし、悲しみに学ぶ。

◎ いつもニコニコ、優しい言葉。

◎ 因縁が無ければ、何も生じない。

◎ 拝みあう家庭に悪は育たない。

◎ 拝みあう心に生きる愛と信。

◎ 感謝の気持ちが、いい顔をつくる。

◎ 原点にかえれば、道は必ず開ける。



報恩講

報恩講をお迎えするたびに、今年もこのご縁にお会いできたことを、つくづく有難いと思います。

限りある身の、今日を今を生きていられる事に感謝いたします。

ご開山親鸞聖人は九十年のご生涯をかけて私の為にアミダ様のおしえを、浄土真宗の教えを

説いてくださいました。その御恩はどのように報じ、どのように感謝してもしきれるものではありませんが、

報恩講にはひとしおその思いを深くすることです。

浄土真宗の教えは、私の大切な親様が、アミダ様であることを気付かせてくださいました。

親様のお導きのより、真実のしあわせに向かって強く明るく生き抜いていけることを

教えて下さいました。私が報恩行を行なえるには、浄土真宗のお寺でその教えをしっかり聞かせて

頂く事が大切でしょう。何を聞かせて頂くのでしょうか。

私が人間として生まれて良かったと言える一生をおくる活力を聞く事です。

お念仏の教えが生きる喜びを育てて下さることを聞くのです。

念仏に縁のある人もない人も、こぞって幸せになるために、念仏の輪を広げたおいものです。

その心が自分のものとなっていく事こそ。報恩講でありましょう。


月々の法話 鷹谷俊昭師著 探究社刊より



◎ 心労は人生にとって敵である。

◎ 生きて甲斐有り 死して悔いなき一日が我らの生涯をゆたかにする。

◎ 人生における無上の幸福は われわれが愛されていると言う確信である。

◎  人生とは 運命がなみなみとつがれている盃である。

◎ 貸した方は借りた方よりよく覚えている。

◎ 人生はしあわせものには短く 不幸せな者には長ったらしい。

◎ すべての悪をなしてはならぬ よろずの善を行なえ 銘々の心を清くするのが仏法である。

◎人生は それがどんなものであるかを知らないうちに半分過ぎ去ってしまう。

◎ 人生における大きな喜びは 君にはできないと世間が言う事をなしとげる事にある。

◎ 喜んで事をなし なされたことを喜ぶ人は 幸福である。




教えを受ける気持ち

どんなにいいお医者様でもいいお薬がないと病人は治せまいし、

そのようにして作られたお薬でも病人が飲まないと治りません。

お釈迦さまが説かれたいい教えの優れた苦しみを救って下さる方法が有りましても、

それを受ける気持ちがないと大きな悩みを持ち続けた一生となって大変不幸な話です。

例えばある人が深い穴に落ちたとします。その時、力のある人が太い綱を下げて

助けてやろうとします。

この時落ちた人がつかまろうと努力する、いわゆる信仰の力で太い綱にすがりつくように

すればいいのです。あの み仏さまの強いお慈悲と強いお救いの力を示してある教えに

力強くすがる。この三つの力がそろって初めて幸せになれるのです。

合掌


◎ 言葉だけ美しくて実行を伴わないのは 色あって 香りのない花のようなものである 

◎ 合掌してごはんを頂けないような人は 不幸な人だ

◎ 金を貯めて自信を自信を得ている人がある 金が無くなれば崩れる自信である

◎ おなじ太陽の下の旅なれど 曇る日も有り 晴れる日も有り

◎ 生きながら地獄におち 生きながら仏に救われる

◎ 本願を信じ念仏申さば仏になる

◎ 足るを知らざる者は富むといえども 貧し

◎ 心の苦痛は 肉体の苦痛よりももっと悪い

◎人間は自分に都合のいい人を良い人だといい 自分に都合の悪い人を悪い人だと言う

◎ 喜びに達して 感謝が湧く 感謝は人生最大の凱歌である



布施

世間の家庭では「親切」が物差しになっています。

ことあるごとに「親切にしてあげなさい」と言いますが、

しかし、仏教者の家庭では「布施」が物差しなのです。

やらせて頂いた方が感謝するのです。

そうするとどんな時でも幸せになれるのです。

親切では、相手が「有難うございました。これで助かりました」

と、お礼を言ってくれないと「喜び」になりません。


相手の反応に応じて幸せになったり腹を立てたりしているわけです。

それでは幸せになりません。

真の幸せになるためには「布施」の思想しか有りません。

その背後には自分は不完全な人間なんだから布施をさせて頂くんだ

と言う心があることをご理解頂きたいのです。





◎ やり直しのきかない 誰にも代わってもらうことのできない 今日一日。

◎ 人間に生まれて良かった 私が私に生まれて良かったと 心の底から叫ばれる時に初めて成人になる。

◎ やり直しのきかぬ人生であるが 見直す事が出来る。

◎ よい人にあって教えられ 悪い人にあって反省すれば 善悪共に有難い。

◎ 誰のことばからも 何かを聞き取ろうとする人は 常に進んでいる人である。

◎ 人生の帰るべきところを持たなければ たとい八十で死すとも若死にである。

◎ 智慧を求めるものは いつも若い。

◎ 一切に対して わたしは初心でありたい。

◎ 何も知らなかった日のあの素直さにかえりたい 一杯のお茶にも手を合わせて頂いたあの初めの日にかえりたい。



バックミラー

あるお寺の掲示板で、こんな言葉に出合いました。

「自動車は前に進むためにあるものである。しかしよく見ると、後ろを見る目を持っている。

宗教心のない人は、バックミラーのない自動車と同じである」

この言葉を読んで『ものの見方』と共に『ものの考え方』についても、

もう一度、自覚と反省をしなければならないと思いました。

なぜならこの私自身が、あの自動車のように、果たして心のバックミラーをもっているかどうかと、

確認しなければならなかったからです。

たとえば、仏さまの眼は、「閉目・開目」とか、あるいは「半眼」と言う言葉で、お経の中に出てきますが、

そんな仏さまの目が半分は閉じられ、半分は開かれていると言うその意味は、

外の物を見る目と心の内側を見る目とのバランスをいつも保っていらっしゃることを、

身を以て私達人間に教えていて下さるからであります。

『人間は目を二つ持つが、舌は一つである。

と言う事はしゃべるより二倍も観察するためである』

と言ったのはイギリスの作家・コルトンであります。



人間生きていく上で

人間生きていく上で無駄なものは何一つありません。

そう聞いただけでも、人間が生きていくという事がどんなに大変な事かわかります。

希望が人間を勇気づけ、悲しみが人間を大きくすると言われても痛みや悲しみを

自分から求めるものはまず居ないでしょう。

だが、人間に生まれた以上楽しみや歓びだけを選り好みして生きるわけにはいきません。

苦楽は糾える(糾える)縄なのだから

楽と苦を抱き合っているようなものです。

当然、多くの苦難に出会うことになります。

その苦難を一つ一つ解決して希望と勇気とに変えていくところに人間として生きてきた

誇りと価値があると言えるのではないでしょうか。



◎ 苦労も困難も無ければ本当の楽しみもない。

◎ 出来不出来。みんな可愛いわが子なり。

◎ 人の心休まるところ、それは家庭である。

◎ 仏を憶って我は生き 仏を忘れて我は迷う。

◎ 待つは長くして過ぎ去れば短き月日なり。

◎ み仏は、衆生の苦悩ある胸にやどりたもう。

◎ 目が覚めたら今日の命にまず感謝しよう。

◎ 喜べば、喜びが喜びを集めて、喜んで来る。

◎ 明るい家庭はいつもニコニコやさしい言葉。



合 掌がっしょう

こまめに働く事を「手足のように動く」と言い、手足ほど私の言う事を聞くものは有りません。

生きたいと思えばすぐに足が動くし取りたいと思えばすぐ手が動きます。

ところが、それほどいう事を聞く手も二つ合わせて合掌する事になると、なかなか思うように行かないようです。

たとえば、ご飯を食べる時を考えてみる。

食卓の前に座ると、右の手は箸を、左の手は茶碗を、思わない前から自然に働きにうつります。

しかし、食べる前に手を合わすことはなかなか出来ません。何度言っても忘れてしまいます。

箸も持たず、茶碗も持たず少しの手間もいらないのに、合掌はなかなか難しいのです。

この難しいなかなか出来ない合掌が出来るのは、仏さまの大きな力の現れとしか思われません。

もし、人間の力で出来る事ならば誰でもやれる筈です。

二つの離れている山を一つ所に近寄せることは、人間の智慧と機械の力で出来る事であります。

離れている二つの山を崩してその中にある池をうずめた飛行場を作ったり運動場を作ったりしている事は

皆知っています。しかし、一番手近で、一番やりやすい右と左の手を一つ所に近寄せて拝むと言う事は、

人間の知恵や機械の力でやれる事では有りません。みんな仏さまのお力であります。

私達は『灯台もと暗し』と言って一番近い所自分の目の前に、仏さまのお力の動いている事を知らずにいます。

もう少し、心して考えてみましょう。そこに感謝の気持ちがわいてきます。




地 獄(じごく)


仏教のお話をしていると、地獄や極楽は本当にあるのですかと、

疑わし気にたずねられることがあります。

そこで、あなたの言われる地獄や極楽はどのようなものを指しておられるのですかと

問い直すことにしています。

そうすると、びっくりして地獄にいろいろあるのですかと言われます。

地獄も色々ありますが、あなたの漠然とした考え方にもいろいろあり、

その両方の場合もあります。考えておられる内容によっては、そういう地獄なら無いでしようとか

それは地獄ではありません、と申すこともあります。

地獄とは漢字の意味から言えば地下の牢獄となります。インドの言葉ではナラーカと言います。

世間的にも奈落の底に堕ちるなどと使います。

意味は苦しみの極まった世界と言う事です。

自分の間違った考え、言葉、行動の当然の責任として現れる結果の状態、また環境の事です。

これは悪い事をしたら地獄へ堕ちますよと言ういましめの喩えだと受け取ってはいけません。

喩えではなく、あなたが地獄へ堕ちるだけの業因、つまりそれだけの行いをしないなら

あなたにとって地獄はないのですから。

<火の車作る大工はなけれども、己がつくりて、己が乗りゆく。>

と言う古歌がそれをよくあらわしてちます。

しかし、自分の事はなかなかわかりにくいものです。

とくに悪いところはわかりません。

だからアミダ様の明るい光に照らされて本当の自分の姿に気付かされた時こそ、

「地獄は一定住かぞかし」と地獄の姿、その恐ろしさが身にしみます。

櫛を拾ったり、鏡が割れたり、四十九日が三月にまたがるために苦しみを受けるのではありません。

地獄へrの人生ではなく、お浄土への方向を正しく向けた日々を過ごすために仏法を聞きましょう。


鷹谷俊昭師著「月々の法話」 探究社刊より



◎ 丸い心こそ仏の心。心安らかな一日を。

◎ 生きています 生かされています この生命。

◎ 命をかけてもと言うものを持つ人は幸せだ。

◎ 美しい花のかげにはかくれた根の力がある。

◎ うばいあうと足りない 分け合うと余る。

◎ 「おかげさま」と言える人生に孤独はない。

◎ 拝まるる仏は 拝む私となりて救いたもう。

◎ 同じ石に二度つまずくのは大きな恥である。



恩 は 石 に き ざ め

ある学校の校門の掲示板に次のような言葉が書かれていました。

”恩は石にきざみ うらみは水に流す”

受けた恩は石にきざみこむように、しっかりと心にきざみつけて忘れないようにして


うけたうらみはあっさりと水に流して忘れてしまおうという意味だと思うが、同じ言葉でも

自分の事となると、かけた情けは何時までも忘れず心にきざみこんで「あの恩知らずが」と

いつまでも恩に着せ、人からうらみをかうようなことをしていても、、さっさと水に流したように忘れてしまうようです。

ちょうど”かけた恩は石にきざみ、受けるうらみは水に流そう”と言うのが私の心の本当の姿のようです。

もっとひどいのになると、”受けたご恩はさっさと水に流して忘れてしまい、受けたうらみはしっかりと心にとどめておいて、

一生かけても仕返ししてやるぞというのが私の心のどこかにあるのではないでしょうか。

親鸞(しんらん)聖人は常にご恩と言う事をのべておられます。

仏さまのお慈悲に対するご恩、仏さまの教えを伝えて下さった尊い方々のご恩

このご恩には、たとえ身を粉にしても報いなければならない。

また、骨を砕くほどに感謝してもしきれないと、如来さまのご恩、善知識のご恩を説いておられます。

また、明治天皇のお歌に「天をうらみ人をとがむる事もなし、わがあやまちを思いかえせば」というのがありますが

私達は、感謝と反省の心をもって、今いちどこの言葉を味わってみたいと思います。

恩は石にきざみ うらみは水に流す




◎ 微笑みは闇の世を照らす月明かり。

◎ ほめあう所に進歩と向上がある。

◎ 世の中に無駄なものなど何ひとつもない。

◎ 楽あれば、苦が顔を出す娑婆世界。

◎ いろいろの自分が見ている、この「私」。

◎ 老いの死も他人ごとならず己が道。

◎ おつとめの、声がそろって背筋立ち。

◎ 希望に置き愉快に働き、感謝に眠る。

◎ 念仏の声、いつのまにやら親に似て。

◎ 仏に捧げた浄財は、やがて自分に帰る。



◎掌は家庭教育の基本。

◎ 朝のない夜は来ない。

◎ ご先祖さま拝む姿に「幸」宿る。

◎ 生きているのではなく、生かされているのである。

◎ ろうそくは、身を炎にして暗い闇を照らす。

◎ 感謝で暮らす生活には、不幸が入る余地がない。

◎ 人生は二度ない。しかし、出直すことは出来る。

◎ 先祖を粗末にすれば、自分が粗末にされる。

◎ 先祖をよく敬う人は、子孫の事もよく考える。

◎ 働きは最良の健康法であり、長寿の秘法である。




ありがたい人生


家族そろってアミダ様の前で一年の出発をご挨拶を出来ることは有難いことです。

世の中の色々なニュースを聞いていると私より若く、私より元気と思われる方が

何人も亡くなっておられます。それを考えるとこうして自分が、新しい年を迎えられることの方が

不思議なことに思われてきます。

また、家族の中にどのような出来事が待っているかわからないのに欠けずにおられると言う事も

また恵まれたことです。

そのうえ、今年もまた有難いアミダ様のお慈悲をしっかり聞かせて頂き、その光に照らされ、護られ

育てられ行くことのできるのを、得難いご縁をちょうだいしたことと尊く思います。

自分の残された人生を大切に過ごすためには、今年一年こそ文字通り、あることが難しいのに

人間界に有り得たことを喜ぶ、有難い思いの一年としたいものです。

有難いことを当たり前とおろそかにし、有り得る困難を不平不満の種としないよう、

生きている事の意味を自分の心の中に深める事が出来るよう、味わいなおし、

なお一層ご恩報謝のため、お称名もろともに努力を捧げる覚悟をかためたいものであります。

それを目標にすべてのお方が、朝晩のお仏壇での礼拝と、少なくても月に一度はお寺でのアミダ様の

お話を聞く機会を持っていただきたいものです。

月々の法話 鷹谷俊昭師著 探究社刊より



◎ たった一言が人の心を傷つける。たった一言が人の心を暖かくする。

◎ 「ハイ」と言う答えは、耳に快い

◎ 人には優しく、己にはきびしく

◎ めざめよう、すばらしいおのれに

◎ 礼儀が乱れていると、心も乱れる

◎ ”当たり前”の心を解き消すお念仏

◎ いたわりは、人にも物にも草木にも

◎ 一日は、朝の「おはよう」から始まる

◎ 老いも死も、やがて迎える己が道

◎ ご先祖さま拝む姿に「幸」宿る



言葉が話せるのはのは

人間だけです。

犬や鳥も鳴く事は出来ますが、ものはいえません。

ものがいえなかったらどんなに不自由なことでしょう。

”おはよう””今日は”のご挨拶はもちろん、お母さんに”何か欲しい”とおねがいすることもできません。

気分が悪くなったとき、それを伝えることも、道に迷った時にたずねる事も出来ません。

自分の思っていることを人に伝えるのに、言葉ほど便利なものはないのです。

ゼスチャーでも少しは分かりますが、言葉ほどくわしくは伝えられません。

言葉は大変便利なものですが、使い方によっては、たった一言で、人を喜ばせたり、

また泣かせてしまったりするのです。

どういううわけか今日は機嫌の悪い社長さんが、書類を見せに来た部長に言いました。

「何だこの字は!下手くそ、書き直せ!」

むっとした部長は課長に「何だこの字は!」と同じような調子で言いました。

言われた課長は、また係長に言いました。「何だこの字は!」 腹が立った係長は社員にあたりました。

社員は友達に声をかけられても笑顔も返せません。

会社に来るお客さんにも、つい無愛想にしてしまいました。

お客さんは「何だ、この会社は、人を馬鹿にして」と怒ってしまいました。会社はおとくいさんを失ったのです。

そのお客さんは、家で奥さんに当たり、その子供達は、いつも叱られないことも、叱られてしまいました。

考えてみると、最初は、たった一人の社長の言葉が伝染病のように広がって、たくさんの人を傷つけたのです。

あの時社長が「君、もう少し綺麗に書き直してくれ給え、僕もこの頃目が悪くなってねぇ」と

ていねいに頼んでいたら、部長も課長も係長もお客さんもその家族も、気分を悪くすることはなかったでしょう。

私たちが何気なく使う言葉もこれと同じようにたくさんの人に響いていくのです。

お経様の中に”和顔愛語”と言う言葉が出てきますが、心がけたいものですね。

”たった一言が人の心を傷つける。たった一言が人の心を暖かくする


味わい深い言葉ですね。

ほとけの子 青柳田鶴子著 法蔵館 刊より






親 ご こ ろ

赤ちゃんを産んだ母が 真っ先にたずねる

からだはまともですか 丈夫な赤ちゃんですとも

ありがとうございます 母よ このへりくだった感謝を

いつまでも忘れないで・・・・・・・

これは河野進と言う人の「赤ちゃん」と言う詩である。

母が子供を産むときには四千メートルの山に登るのと同じぐらいの体力を必要とするという。

我が子を産み終えたばかりの母はすっかり体力を消耗している。

しかし、出産後その母の口に最初に上るのは、今生まれた我が子が五体満足かどうか

それのみを案ずる言葉である。

子を思う親の心は、何物にも代えがたいものである。

しかし、私たちは成長するにつれて、自分一人で大きくなったように思い、しかも、この親に手がかかるようになると、

つっけんどんになりわずらわしく感じてくる。

母の願いそれはあなたが病気をしないこと

素直で優しく幸せを喜べる人になってくれること 

考えてみれば この願いは 皆 わたしのことばかり

なのに小さい子供は母の着物を踏み

大きくなっては母の心を踏む

ーーーーどこかのお寺にこんな詩が書いてあったーーー

”十億に十億の母あらんも わが母にまさる母あらめやも”

これは、暁烏敏先生の読まれた歌であるが、このように慕われた親も素晴らしい人であり

慕った先生も素晴らしい人である。

この親ごころを大きく大きく広げて考えてみる時、みほとけ様のお心の少しでも知らせて頂く事が

出来るのではないでしょうか。

合掌



◎ 千里の道も一歩から 日々の実践こつこつと。

◎ 退屈なのは私の心が怠けているからだ。

◎ 多忙 多忙 多忙 余裕は自分で作るもの。

◎ 手を合わせ 感謝の気持ちで暮らしましょう。

◎ 人の頭の冠よりも自分の足の裏を褒めてあげたい。

◎ 人の責めを口にするより まず反省。

◎ 仏さまのようになる これが生きる目的です。

◎ 蒔いた種は 遅かれ早かれ必ず芽を出す。

◎ 麦は寒さに耐え 米は暑さに耐えて実ります。

◎ 命を見つめる 木の命を 土の命を 人の命を。




あ り が た い

変な話で恐縮だが、友人の父君が亡くなられて、

お通夜に行って少々振る舞い酒をよばれたせいか

家に着くなりトイレに入って小用をなした。勢いをついて出てくる小便を終わって

ホッとしてトイレから出るときに

ふと立ち止まった。いつもなら「ああい気持ち」と何も思わず出てくるところだが

今日はいつもとは違う。

お通夜の席で父君の死因を聞いてきたからだ。

友人の父君は数日前に急に小便が出なくなり、入院して管を通して排尿したが、

期待するほども出ず、

その上血が尿にまじっていた。そうするうちにも尿が体内に回り尿毒症をおこして

全身が水太りになり

唇までも腫れ上がってきた。 人工透析(とうせき)手術をするにも高齢のため不可能とのこと、

やむなく腹膜透析と言う手術をしたが、残念ながら二日ほど苦しんで亡くなってしまったのだ。

そのことを思い出して、小便はしたくなったら出るのが当たり前と
思っていたが、

そうでは無かった。

そう気が付いたとき私はふと立ち止まってしまったのだ。有難い、そうだ有難い事なんだ。

私たちは自分で生きているつもりでいたが、大きな力に生かされて生きていたのだ。

我々は毎日の生活になれきってしまうと、お蔭様と言う事を忘れてしまい、

あらゆることに不満を抱き

愚痴をこぼす。そして、今日、大きな力にいだかれてあることに気が付かないのだ。

眼を開けば 当たり前であることがおどろきとなる。

眼を開けば 何処にでも教えがある。

これは先輩の中西智海和上の言葉であるが、心の眼の角度を変えて物事を見ると、

当たり前ではなかった、有難いことだとすべてに感謝させて頂けるだろう。





◎ 感謝で暮らす生活には、不幸の入る余地がない。

◎ 今の幸せは先祖が父母が祈ってくれたおかげ。

◎ 十方衆生みな救われて、私一人の南無阿弥陀仏。

◎ 人生は二度ない。しかし、出直すことは出来る。

◎ 先祖を粗末にすれば、自分が粗末にさっれる。

◎ 先祖をよく敬う人は、子孫の事もよく考える。

◎ 働きは最良の健康法であり、長寿の秘法である。

◎ 一粒でも蒔くまい、ほほえめなく種は。

◎ 迷信に迷い占いに惑う人、占いはよく当たる。

◎ ろうそくは、身を炎にして、暗闇を照らす。



すみません

「すみません」と言う言葉は謝る時、礼を言うとき、お願いするとき、呼び掛けの時など幅広く使われます。

特に最近は呼びかけの時が多いようです。 もしもし、ごめんください、ちょっと失礼します。

昔なら「たのもう」と言うときにも、すみません(すいません、すんません)と使われます。

もともとはお詫びの言葉です。「済む」に助動詞「ます」と「ん」がついてできました。

済むは終わる、完了するの意味ですから、終わっていない、完了していないことになります。

もとは澄むの意味だと言われます。この場合は濁りや曇り、わだかまりが残っていると言う事になります。

失敗を謝っても謝っても許してもらえないときに、とうとう腹を立ててこんなに謝っているのにまだ文句を言うのかと

なることがありますが、澄みませんと言うのはどんなに謝っても謝っても謝り切れたとは思いません切れたとは思いません。

と言う事になるでしょう。何の気なしに使っている言葉が、よく考えてみるといろいろ教えられることが多いものです。

この言葉は人が生きるのには感謝しきれないおかげを頂いている事、何時も皆にお詫びしきれないほどの迷惑を

掛けていることを気付かしてくれます。  


三分間真宗法話  鷹谷俊昭師著 探究社刊より拝借



◎ 心の窓を開けば、そこに光り輝く世界がある。

◎ 眼を開けば当たり前であることが驚きとなる。

◎ 眼を開けば何処にでも教えがある。

◎ 有難うと言われるように、言うように。

◎ 怒れば地獄、貪れば餓鬼、恥を知らぬは畜生。

◎ いそしみはげむ者は、常に楽しく安らかなり。

◎ 美しい花が咲いた。隠れた根のおかげです。

◎ 心を耕し仏種を蒔けば、思いやりの芽が出る。

◎ 千里の道も一歩から、日々の実践こつこつと。

◎ 手を合わせ、感謝の気持ちで暮らしましょう。



人と 生れて

ある日の事、お釈迦さまが、お弟子のアナンを連れて道を歩いておられました。

ふと立ち止まってアナンに「お前の足元の土をすくってごらん」と言われた。

アナンは右手で土をいっぱいすくいあげました。

お釈迦さまは「お前の手のひらの土と大地の土とどちらが多いか」と聞かれた。

「それは大地の土の方がずっと多う御座います」とアナンは答えた。

すると、お釈迦さまは「その通りだよ、この世界に生きているものは沢山いるが、人間に生まれるのは

お前の右手の土ほどわずかなものだけなのだ。これは本当に幸せなことだ。深く感謝しなければなるまい」と

仰った。そして今度は、手のひらの土を爪の先ですくってみるように言われた。

アナンがその通りにすると「爪の上の土と手のひらの土とどちらが多いとおもうかな」とお尋ねになった。

「ハイそれは手のひらの方がずっと多う御座います」とアナンは答えた。

すると、お釈迦さまは静かにうなづかれて、「その通りだ。同じ人間に生まれながら、仏の教えをきくことができるものとを

比べると、それほどの違いがあるものだ。私たちは爪の先の土なのだ。そのことを喜ばねばならない」とアナンに仰った。

これは、華厳経と言うお経に出てくるはなしです。私たちが人間に生まれさせて頂いたと言う事のむつかしさ

しかも、人間として生まれて仏法に会うと言う事のむつかしさを教えられたものであるが、

今、私達は生まれ難い人間に生まれさせていただき、会い難き仏法に会わせて頂いておりながら、

その幸せに気付かずにおると言う事は、なんと、もったいない事でしょう。

このお話を深く味わって、人間として生まれさせて頂いた幸せを喜び、

会い難い仏法に会わせて頂いた事の喜びをお念仏と共に深くかみしめさせて頂きましょう。

合掌


◎ 合掌は家庭教育の基本です。

            ◎ 子供は親の鏡である。

            ◎ 反省は進歩の宝である。

            ◎ 仏具を磨くも心の修行。

            ◎ 気にしても苦にするな。

            ◎ 学ぶことに年令はない。

            ◎ 根の深さほど葉は広がる。

            ◎ 人に勝つ前に自分に克つ。

            ◎ 仏はいつも見てござる。

            ◎ 安らぎは自分の心より。

                             

    
お月さまと仏さま

            あるところに西瓜泥棒がいた。子供を連れて西瓜畑にやって来た。

          あたりに人影のないのを確かめて父親は子供に言った。

          「ええか、だれか人が来たらすぐにしらせるんやで」

          そう言うと父親は西瓜畑の中に入って行った。たくさんなっている西瓜を一つ一つ

          ポンポンとたたきながら一番美味しそうなのをよっていた。

          すると突然大きな声で「お父ちゃん見たはるで!!』と子供がどなった。

          父親の西瓜泥棒はびっくりして「どこやどこや!!だれやだれや!!」とあわてて聞いた。

          すると、子どもは空を指さして「あそこや、お月さまや」といった。父親が空を見るときれいな

          まん丸いお月さまがいつの間にか雲の間から顔を出してこうこうと輝いていた。

          「お月さまが見てる」子供はまた言った。父親は「なんや、月か」と言いながらもじっとお月さまを

          見つめていたが、やがてすみませんと言うと両手を合わせてお月さまをおがんだ。

          きれいな月の光をみているうちに自分の心が洗われて行く気がして、自分が今やろうとしている事が

          恥ずかしくなって来て西瓜を盗むことをやめて子供をつれて帰って行った。

          私達は、ともすれば人が見ていれば善いことはするが、人が見てないと善いことをしない。

          それどころか人が見ていないと悪い事を平気でしがちである。

          今、西瓜泥棒の親子の話ではないがだれも見ていないが、お月さまがみている。

          このお月さまの光で泥棒の心が洗われた事を思うとき、このお月さまと振り替えて考えてみると、

          私たちが、煩悩に眼さえられて見る事が出来ないけれど、仏さまは常に私達を見守って下さっているのだ。

          この気持ちが持てた時、私たちの心が洗われていくのです。




          ◎ 悪魔となり、菩薩となるも、心の持ちよう。

          ◎ ありがとうと 言われるように言うように。

          ◎ 怒れば地獄 貪れば餓鬼 恥を知らぬは畜生。

          ◎ いそしみはげむ者は 常に楽しく安らかなり。

          ◎ 美しい花が咲いた かくれた根のおかげです。

          ◎ たった一言が人の心を傷つける。

          ◎ たった一言が人の心を暖かくする。

          ◎ お金の亡者は、たまればたまるほど汚くなる。

          ◎ 限りなき光は 限りなき闇を 照らし尽くす。

          ◎ くらしに光を求めて 自らの行動をつつしむ。

      

    
     絶対の平和

          よい戦争なんかあったためしはない。

          正義の戦い、聖戦などあろうはずはない。

          悪い平和なんてあるはずはない。

          妥協の平和と言う人もいるが、そんな人はまた戦争を起こそうとする人の

          偽りの言葉である。

          如何なる戦争もよくない。

          平和は絶対である。

          仏法はこよなく平和を求める。

          仏法は聖なるも、正なるものである。

          
    闘争本能

         人間には闘争本能があると言われている。

         他人に負けてはならぬ。他人を超えなくてはならぬ。

         他人に比べ、劣る存在になりたくないのはわかる、

         他を打ち負かし、他を害い、他を破滅に陥れることは

         許されない。

        本能のまま行動するとそうなりかねない人間、

        そんな私であると言う事を教えてくれるのが仏法である。



 
明けましておめでとうございます。

  
今年もよろしくお願い致します。

      今年一年お念仏と共に健康で強く明るく楽しいとしでありますように。



 ◎ 言葉は矢ではないが心を突き刺す事が出来る。

 ◎ 目には気をつけよ、口よりもよく心を映しだす。

 ◎ 最も美しい花が、最も香が良いとは限らない。

 ◎ 直ぐ断るのは、約束して長引かせるより良い。

 ◎ 二度死ぬことはないが、一度は避けられない。

 ◎ 雌牛は乳を搾る前に撫でてやらねばならぬ。

 ◎ 親の意見と茄子の花は、千に一つの無駄がない。

 ◎ 有難うと言われるように、言うように。

 ◎ 怒れば地獄、貪れば餓鬼、恥を知らぬは畜生。

 ◎ いそしみ励む者は、常に楽しく安らかなり。

         

   
太陽や大地や水の恵みを受け

      お米や魚の命をいただき

           生かされて生きている私


 お米やsかなを食べると言う事は、お米や魚の命を頂くと言う事。

ほかの生き物の命を犠牲にして、自分が生かされている。

その食べ物は、太陽や水や空気や大地のおかげで育つ事が出来た。

だから、何から何まで宇宙万物一切の恵みを受けた。

そのお蔭様で私は今生かされている。

 しかし、普段は、そのことを忘れてしまっている。

与えられている命を我が物とし、「我が命」を生きていると錯覚している。

この命は私のものではない、宇宙万物のいのちなのだ。

そのことに気付き感謝する気持ちが、南無阿弥陀仏である。

 



 ◎ 感謝で暮らす生活には、不幸の入る余地が無い。

 ◎ 過去が花と咲いている今。未来の蕾で一杯の今。

 ◎ 自然の春は太陽が呼び、社会の春は人間が創る。

 ◎ 人生は二度ない。しかし、出直すことは出来る。

 ◎ 先祖を粗末にすれば、自分が粗末にされる。

 ◎ 先祖をよく敬う人は、子孫のこともよく考える。

 ◎ 喜んで自分を捨てるところに、障りはきえる。

 ◎ ろうそくは、身を炎にして暗い闇を照らす。

 ◎ 生きているのではなく、生かされているのである。

 ◎ ありがとう と 言われるように 言うように。



               やわらかな心

あるお寺の掲示板で、私はこんな言葉に出会いました。

「セトモノとセトモノと ぶつかりっこすると すぐこわれちゃう。

どっちかやわらかければ だいじょうぶ

やわらかいこころを 持ちましょう」

 私は近頃歯が悪くなって、歯医者さんに通っているのですが、固いはずの歯がポロリとかけおち

やわらかい舌が、いつまでもペラペラと丈夫であることに苦笑しました。

 ところでおシャカさまはいつも「身も心もやわらかく・・・・・」ということを、教えて下さいました。

そのやわらかさの代表が、太陽の光であり、空気であり、水であるように思います。

 どれもみんな、私たち人間が生きるために、大切なものばかりであります。

 そして、どれもみんな、私たち人間の作ったものではありません。

 たとえばその中の水が、また一番強い力を持っていることは、不思議にさえ感じます。

 現代の念仏者としてしたわれ、九十余歳で亡くなられた教育者の甲斐和里子先生は、

 「岩もあり木の根もあれどさらさらと、たださらさらと水の流るる」と詠まれました。

 やわらかい心を持ちたいものです。

                     
テレフォン法話 言葉のプレゼント      百華苑 刊より

 ◎ 感謝で暮らす生活には、不幸が入る余地がない。

 ◎ 人生は二度ない。しかし、出直すことは出来る。

 ◎ 先祖を粗末にすれば、自分が粗末にされる。

 ◎ 先祖をよく敬う人は子孫の事もよく考える。

 ◎ 働きは最良の健康法であり、長寿の秘法である。

 ◎ ろうそくは、身を炎にして暗闇を照らす。

 ◎ 和顔愛語。おはよう、有難う、ご苦労様。

 ◎ 生きているのではなく、生かされているのである。

 ◎ ありがとうと 言われるように 言うように。

 ◎ 十方衆生みな救われて、私一人の南無阿弥陀仏。



           しあわせ

 私たちは皆幸せになりたいと思っています。”しあわせ”ってどんなものなんでしょう。

”これがしあわせです”と言って見せることもさわってみる事も出来ません。

 色も形もないのですから。 ではお金持ちになることでしょうか?

イヤイヤお金をたくさん持っていても、不幸な人はいっぱいいます。

 新聞をみていると、大会社の社長さんでも、自殺する人がありますし、

高級な自動車に乗っていても、その車ごと海にとびこんで、一家心中する人たちもいます。
 

しあわせだったれ自殺などはしないはずです。

 二年生のユキちゃんは、毎日お小遣いを五十円もらっています。
 

いつも「お母さんありがとう」と言ってもらいます。

隣の子も五十円づつもらうのですが、その子はいつも「なんだケチクサイな。たったこれだけか」と

ぼやきながらもらうのです。
 

お小遣いの金額は同じ五十円なのにユキちゃんはそれでしあわせですし、

隣の子はその時しあわせではありません。だからお金とか物には関係ないといえます。
 

お釈迦さまは「誰かさんに”ありがとう”とおれいをいいたくなる心をいつも持っている人が

しあわせなのです」とおしえて下さいます。
 

お金持ちでもまだまだ足りないと不足に思っている人はしあわせではありませんし、


お金持ちでなくても、わたしはこれで満足だと思っている人はしあわせなのです。
 

たとえ病気にかかっていても、”みんな親切に看病してくれるし、有難う・有難う”と思っている人は、

病気をしていても心は満たされているのです。
 

有難うと思うことは私たちのまわりに一杯あるのですが、気が付かないことが多いのです。

仏さまのお話を聞いていると、これがいくらでも見つかります。
 

たくさん見つける事の出来る人ほど幸せな人といえるでしょう。

      
 法蔵館 刊 青柳田鶴子著 ほとけの子より拝借



 ◎ 千里の道も一歩から 日々の実践こつこつと。
 
  
  ◎ 誰が見ていなくても 仏様が見ています。
 
 
  ◎ 手を合わせ 感謝の気持ちで暮らしましょう。
 
  
  ◎ 人間の値打ちは まず足元から光る。
 
 
  ◎ 他人の責めを口にするより まず自己の反省。
 
  
  ◎ 行き詰まった時が あなたの価値を決めるとき。
 
 
  ◎ 命をみつめる 木の命を 土の命を 人の命を。
 
  
  ◎ 山中の賊を破るは易く 心中の賊を破るは難し。
 
  
  ◎ 最も美しい花が 最も香が良いとは限らない。
 
  
  ◎ すぐ断るのは 約束して長引かせるより良い。



        秋分の日・祖先崇拝

暑さ寒さも彼岸までといいます。

お彼岸の行事は千年以上も昔から日本人の生活の中に溶け込んでいるようです。

現在も「秋分の日」と言う名で国民の祝日となっています。そしてこの日は「祖先を敬い亡くなった人々をしのぶ」と

定められています。祖先がおられたおかげで、私たちがこの世にあるのですからその御恩をありがたく思い感謝することは

当然です。
 

先祖の供養をして下さいと言って来られる方があります。供養の第一の意味は敬う事ですから、この考えを起こされたのも

祖先を尊敬しての事でなければならないのに、お聞きするとその出発点が、近頃家族の中でけがをしたり病気になったり

仕事に失敗したりと言う事が続くので、オガミヤへ行ってみてもらったら、先祖の供養をしないからタタリがあったのだと言われた

から来ましたというような場合があります。これでは祖先を敬っているのではなく,恐れ怖がっていることになります。
 

私が人間に生まれる事が出来たおかげ、仏法に近づくことができたおかげをしり、ようこそ私にご縁をくださったと感謝せずには

おられない気持ちを表すのではなく、暴力団が恐ろしいから言いなりになるのと同じならこれくらい祖先をないがしろにし

バカにし、傷つけたかんがえはないのではないでしょうか。
 

これでは祖先崇拝ではなくて祖先を侮辱か、恐怖か、敬遠であってこんな受け取り方をされたら

祖先もたまったものではありません。
 

そもそも、あなたが死後子孫からそう思われたらどう感じるか想像してごらんなさい。
 

どうすることが、どんな心になることが、どんな行動をすることが、祖先を敬うことになるのか

わが身に受けて考えてみたいものです。我がことをいい加減にせず、

もう一度真剣に考えるために仏法を聴聞したいものです。

                                 
鷹谷俊昭先生著 月々の法話 探究社刊より拝借



 ◎ 有難う言われるように言うように。
 ◎  美しい花が咲いた。隠れた根のおかげです。
 ◎ 悪魔となり、菩薩となるも、こころのもちよう。
 ◎ お金の亡者は、たまればたまるほど汚くなる。
 ◎ 機械化出来ないことが、一番人間らしい。
 ◎ 暮らしに光を求めて。自らの行動を慎む。
 ◎ 三千世界みな仏、俺もお前も南無阿弥陀仏。
 ◎ 罪業深重、煩悩具足とは、この私です。
 ◎ 人生に定年はない、古稀も、八十寿も、みな現役。
 ◎千里の道も一歩から、日々の実践こつこつと。



      お経にあうよろこび
 大無量寿経に、素晴らしい因縁に恵まれなければお経を聞く事は出来ないと書いてあります。
 
  お経なんていつでも聞けると言われる方があるなら、どうぞいつでも聞いてください。

 いつでも聞けるが、いつも聞かないのでは理屈に合いませんし、意味もありません。
 
  いつもやらないのでは、聞けないのと同じです。 お念仏を称えると言う事も同様に考えられます。
 
 いつでも称えられると思ったら間違いです。 出来るとお考えの方はぜひしてみてください。
 
 仕事をしながら、食事をしながら、歩きながら、いつでもできると考えるお方はどうぞお称えください。
 
 ケンカをしながら称えられますか。お念仏をすると言う事を思い起こせますか。
 
 人間は、いつでも何でも思えて、思ったらすぐにできるほど単純では無いのです。
 
 そんなにすぐお経を聞いたりお念仏が称えられるぐらいの私なら、今頃このような迷いの世界でうろうろしていないでしょう。
 
 しかし、このように真実に背く私をも、お見捨てにならない阿弥陀様が、その慈悲のお心で環境整備をして下さったおかげで、
 
 私を育て、私の心に通じるご本願のパイプができあがり、その結果として初めてお経を聞きお念仏が申すことができるのです。
 
 それに促されて、往生の道が開けた喜びが噛みしめられ、人生が力強く生き抜けるのです。

          
                           鷹谷俊昭先生著 真宗法話365 探究社刊より拝借



 ◎感謝で暮らす生活には、不幸が入る余地がない。
 
 
  ◎自然の春は太陽が呼び、社会の春は人間が作る。

 ◎人生は二度ない。しかし、出直すことは出来る。

 ◎先祖をそまつにすれば、自分が粗末にされる。

 ◎先祖をよく敬う人は、子孫の事もよく考える。

 ◎働きは最良の健康法であり、長寿の秘法である。

 ◎一粒でも蒔くまい、ほほえめなくなる種は。

 ◎ロウソクは、身を炎にして、暗い闇を照らす。

 ◎和言愛護。おはよう、有難う、ご苦労様。

 ◎生きているのではなく、生かされているのである。
 



                 す み ま せ ん

「すみません」と言う言葉は、謝る時、礼を言うとき、お願いするとき、呼び掛けるときなど幅広く使われます。

特に最近は呼びかける時が多いようです。

もしもし、ごめんください、ちょっと失礼します、昔なら、「たのもう」と言うときもすみません(すいません、すんません)と使われます。

もともとはお詫びの言葉です。「済む」に助動詞「ます」と「うん」がついてきました。

済むは終わる、完了するの意味ですから、終わっていない、完了していないことになります。

もとは、澄むの意味だと言われています。この場合は濁りや曇り、わだかまりが残っていると言う事になります。

失敗を謝っても、謝っても許してもらえない時に、とうとう腹を立ててこんなに謝っているのにまだ文句をいうのかとなることがありますが、

澄みませんと言うのはどんなに謝っても謝り切れたとは思いません。

これくらいで、お心が晴れたとは思いませんということになるでしょう。 

何の気なっしに使っている言葉がよく考えてみるといろいろ教えられるこがおおいものです。

 

この言葉は人が生きるのには感謝しきれないおかげを頂いているいること。

いつもみんなにお詫びしきれないほどの迷惑をかけていることに、気づかさせてくれます。


                        
                                                                      三分間真宗法話365鷹谷俊昭  探究社刊より借用


   ◎ 人の頭の冠よりも 自分の足の裏を褒めたい。

 ◎ 麦は寒さに耐え コメは暑さに耐えて実ります。


 ◎ すぐ断るのは 約束をして長引かせるより良い。

 ◎ 桃李もの言わねども 下自ずから蹊を成す。

 ◎ 二度死ぬことはないが 一度は避けらえない。
                                                             
 ◎ 旨いものは宵に食え 腹の立つことは明日に言え。

 ◎ 親の意見と茄子の花は、千に一つの無駄がない。

 ◎ 壁の向こうの隣人は 海の向こうの兄弟に勝る

 ◎ 君子は言に訥にして 行に敏ならんと欲す。

 ◎ 言葉は矢ではないが 心を突き刺す事が出来る。 
 



                            
                                                     

       
「南無』というは

        
 こうしてくださいと

            
 願うことではなく

                 
如来さまに一切をまかすこと

「南無」とは、私の力ではどうにもなりません。おまかせしますということ。

完全に任せると言う事は、生きるのも死ぬのもまかせるということ。 

これが他力。

 お金が儲かりますように、家内が健康でありますように、長生きが出

来ますように。

こうして欲しい、ああして欲しいと言う事は、わたしのかってなねがい。

つまり、自力。

 私の生き死には、私の力ではどうにもなりません。

おまかせしますという信心(帰依する心)がないかぎり、ほとけ様の救い

はわからない。

南無阿弥陀仏は、自力無効の頷きなのです。

日々のことば   宝蔵館刊より



 ◎ いそしみ励む者は、常に楽しく安らかなり。

 ◎ 美しい花が咲いた。かくれた根のおかげです。

 ◎ 限りなき光は、限りなき闇をてらしつくす。

 ◎ くらしにひかりをもとめて、自らの行動をつつしむ。

 ◎ 心を耕し仏種をまけば、思いやりの芽がでる。

 ◎ 三千世界みな仏。俺もお前も、なむあみだぶつ。

 ◎ 人生に定年はない、古稀も八十寿もみなげんえき

 ◎ 千里の道も一歩から、日々の実践こつこつと。

 ◎ 退屈なのは私の心が怠けているからだ

 ◎ 手を合わせ、感謝の気持ちでくらしましょう。



     

        太陽や大地や水の恵みを受け

         お米や魚の命を頂き

                 生かされて生きている私



  お米や魚を食べると言う事は、お米や魚の命を頂くと言う事。ほかの生き物の命を犠牲  にして、

  自分が生かされている。

  その食べ物は、太陽や、水や、空気や、大地のおかげで育つ事が出来た。

  だから、何から何まで宇宙万物一切の恵みを受けた、そのおかげさまで私は今生かさ  れている。

  しかし、普段は、そのことを忘れてしまっている。

  与えられている命を我が物とし、「我が命」を生きていると錯覚している。この命は私の  ものではない。

  宇宙万物の命なのだ。

 そのことに気付き感謝する気持ちが南無阿弥陀仏である。


               日々のことば 鷺澤顯昇師著 法蔵舘 刊より 





 ◎ たった一言が人の心を傷つける。たった一言が人の心を暖かくする。

 ◎ 有難う言われるように、言うように。

 ◎ 他人を喜ばせれば、必ず自分が喜ばれる。  

 ◎ まいた種は遅かれ早かれ必ず芽を出す。

 ◎ 地獄は遠い、しかしその門は極めて近い。

 ◎ 今日一日人の長所と交われ。

 ◎ 平和な家庭は感謝の礼拝から生まれる。

 ◎ お仏壇は一家の中心、心のよりどころである
  ◎  与えられたこの命、この力、精一杯生きよう、精一杯働こう。                      

 ◎ 人を殺すもこの手、人を助けるのもこの手。

 



                                                      開  運  印 

 印判を変えたから幸せになる。壺を置いたから運が開ける。  こんなこ

とで人間が幸せに なるんだったら、

 長い文化や歴史の中で、科学者も宗教家もひつようでないことを頭で

わかっているのに、 つい迷って除災招福の行動をするのが凡夫です。

 だからそれでいてよいわけではない。

 苦しい時の神頼みをしたくなる。弱い弱い人間。

 迷いの多い凡夫であることに気付かして頂くのが、信仰の始まりでしょ

う。

 正く物を見て、正しく物を考え、正しい行動をとり、強く明るい生活を

送っていきたいものです。