日々の糧と法話のページ
合掌 南無阿弥陀仏
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ちょっといい話
温かい缶コーヒを
ポッカコーポレーションの創業者・谷田利景は、1972年に本格缶コーヒの『ポッカコーヒ』を開発、
その翌年に世界初となる冷温兼用の自動販売機を、三共電器(現サンデン)と
共同開発しました。気軽に温かいコーヒが飲める、それは飲料業界にとっても歴史的な出来事だったと
言えるでしょう。 しかし、そのきっかけとなったのは、彼の温かな気持ちでした。
創業当時のポッカの主力商品はポッカレモンジュースでしたが、会社が大きくなるにつれて
新たな主力商品を開発する必要が出てきました。
1965年の冬のある日、全線開通したばかりの名神高速道路を移動していた彼は、
近くに有った養老サービスエリアに立ち寄ります。そこで、彼が目にしたものは、寒空の下
冷たいジュースを飲んでいる長距離トラックのドライバーたちでした。
忙しいドライバーには、喫茶店で温かいコーヒも飲んでいる時間などなく、
彼は、日本経済を支える長距離ドライバーが、温かいコーヒーも飲めない状況を
何とかしてあげたいと思います。
そこでひらめいたのが、冷やすことも温める事も出来る自動販売機自動販売機でした。
その中にコーヒーを入れれば、夏はアイス、冬はホットと1年中美味しい缶コーヒーを
提供できると考えたのです。
それは、ドライバーたちが喜ぶだけでなく、
彼自身望んでいた新たな主力商品のアイデァでもありました。
その後、紆余曲折を経て1973年11月、ついに冷温式自動販売機の第1号が設置されます。
その場所は トラックドライバーたちが冷たいジュースを飲んでいた、
あの名神高速道路の養老サービスエリアだったそうです。
◎ 言葉は矢ではないが心を突き刺す事が出来る。
◎ 芽には気を付けよ口より良く心を映しだす。
◎ つまらぬ職業は無い。つまらぬ人々がいるだけだ。
◎ 人の事は目に見える。わが身に事は人に問え。
◎ 侮辱した者は忘れても、侮辱された者は忘れない。
◎ 人生は考え方一つで幸せにもなり不幸にもなる。
◎ のびる若竹 親竹超える 親を越えるも親の恩。
◎ 人生は良い師を求める旅でもある。人は師の力によって良くもなり悪くもなる。
◎ 法を聞いて、この教えこそ私の救われる道であると見極めのついたのが信である。
六 モ ン セ ン
昔から「月とスッポン」といいますが、すっぽんは亀の一種です。
何でこんなたとえが出来たのでしょう。実はスッポンではなく朱盆(しゅぼんー赤い丸いお盆)
なのです。「月と朱盆」ならどちらも赤くて丸い、だが全然違うと言う事になります。
ところがだんだん意味も解らず発音だけをまねて「月とシュボン」が「月とスッポン」となってしまいました。
私達はよくお葬式に参ります。棺の中に花や亡くなった人の好物とともに、よく一文銭を六つ書いた紙を
入れられる方が有ります。何故それを入れるのですかと聞くと「サンズの川の渡し賃が六文だから」と言います。
では何故サンズ川の渡し賃が六文なのでしょう。でもちゃんとお経に書いてあります。
『サンズを渡るには六モンセン』と書いてあります。しかし、漢字では『三途を渡るはこれ六門專』です。
三途とは、私達の悪業(煩悩)によって作っている地獄・餓鬼・畜生の事で三悪道とも言います。
六門專とは六つの仏道の門を一生懸命の努力すると言う事であり、布施(ほどこし)・持戒(戒律を守る)・
忍辱(苦しみに耐える)・精進(努力する)・禅定(心をしずめる)・智慧(心の眼を開く)の六つです。
この六つをインドの言葉で六波羅蜜(パラミータ・到彼岸)といいます。
つまり不幸な悩み多い今を乗り越えて、本当に悩みの無い幸せな悟りの向こう岸へ渡る為には
この六つの努力(修行)が大事なのです。
ところが昔、普通一般の考えで深い意味も解らないまま六門專を「ははん渡し賃がが六文だな」と
受け取ってしまったのです・六門專と六文銭では、まさしく月とスッポン(月と朱盆)ほどちがってきます。
お彼岸のあたって、私達はその言葉のうちに隠された尊いみ仏のおしえの意味をよく考え、
私達を救わずにはおれないと誓われた情け深い慈悲の心をしみじみ味わっていきたいものです。
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ちょっといい話
イカリソース
イカリソースは創業120年を超える大阪の老舗ソースメーカー。
日本で初めてウスターソースを作ったのは、創業者である木村幸太郎と言われています。
さて、会社名に有る『イカリ』とは船のイカリの事で、シンボルマークも船のイカリの形をしています。
それは、彼が遭遇したある出来事に由来しているのです。
1895年、彼が乗っていた船が中国の海上で火災を起こしました。
その時、彼は友人と一緒に居たのですが、独身の彼に対してその友人は妻子ある身
そこで、そこで彼は自分が持っていた救命袋を快く友人に譲り、皆が脱出した後で海に飛び込みました。
救命袋の無い状態ですから、そのまま波にのまれて溺れてしまう可能性もあったはずです。
しかし、彼は運よく救命ランチのクサリにつかまり、何とか生き延びる事が出来ました。
その翌年彼はソース製造に成功します。そして、命を救ってくれたイカリに対する感謝の気持ちを
商品に刻みたいとソースに『イカリ』とつけたそうです。
ちょっといい話 発行アルファポリス・発売星雲社より
◎ 怠惰な生活に慣れて来ると人の喜びや悲しみに鈍くなる
◎ 辛抱できそうな失敗なら、自分を発見するチャンスかも
◎ 人曰く一流は謙虚にして柔軟,それ以下は傲慢にして硬直
◎ 画家曰く(模写と真似の違いは尊敬の念有る無しに依る」と
◎ 殺すな怠けず精進せよお釈迦さま不滅の遺言
母ごころ
赤ちゃんを産んだ母が 真っ先にたずねる
体はまともですか 丈夫な赤ちゃんですとも
ありがとうございます 母よ このへりくだった感謝を
いつまでも忘れないで・・・・・・
これは河野進と言う人の「赤ちゃん」と言うしである。
母は子を産むとき四千メートルの山に登るのと同じくらいの体力を必要とするという。
我が子を産み終えたばかりの母はすっかり体力を消耗している。
しかし出産後最初に上るのは、今生まれたばかりの我が子が五体満足化どうか
それのみを案ずる言葉である。
子を思う親の心は何物にも代えがたいものである。
しかし、私達は成長するぬつれて、自分一人で大きくなったように思い
しかも、この親に手がかかるようになると、つっけんどんになり、わずらわしく感じて来る。
母の願い それはあなたが病気をしない事
素直でやさしく 幸福を喜べる人になってくれること を
考えてみれば この願いは みな私のことばかり、なのに小さい子供は母の着物を踏み
大きくなっては母の心を踏む。
何処かのお寺の掲示板にこんな言葉が書いてあった。
『十億に十億の母あらんもわが母にまさる母あらめやも』
これは明烏 敏 先生の詠まれた歌であるが、このように慕われた親も素晴らしい人であり
慕った先生も素晴らしい人である。
この親ごころを大きく大きく広げて考えてみる時、みほとけ様のお心の少しでも
知らせて頂く事が出来るのではないでしょうか。
ちょっといい話
台湾の「一杯ののかけそば」
1992年に大きな話題となった『一杯のかけそば』。映画化までされてものの、
作者が寸借詐欺をして逮捕されたことで一気にブームは去って行きました。
しかし、台湾では同じような話が2006年3月に実話として新聞に報道されたのです。
台湾の南投県と言う所に、夫婦と4男1女の子どもの6人家族が住んでいました。
父親がアルバイトをして生活をしていましたが、仕事は少なく、生活保護を受けなければ
生きていけない状況でした。
そこに追い打ちをかけるように母親がガンを患い、入院しなければならなくなります。
生活はさらに苦しくなり、子どもたちは満足に食べる事も出来ずにいました。
そんな様子を見かねて、入院先の看護師さんが、5人で分けるには少ないと思いつつも
1杯だけあったワンタンメンを食べさせてあげる事にしました。
すると5人のうちの3人の子ども達が分け合って麺を食べましたが、誰もワンタンには手を付けようとしません。
どうして食べないのかと訊ねると、子どもたちはこう応えたのです。
「ワンタンはお母さんに食べさせてあげるんだ」
この話がメディアによって報道されると「親子の為に」と多くの寄付金があつまり、
時の陳水扁総統も激励のメッセージを寄せました。
◎ 生きながら地獄におち 生きながら如来に救われる。
◎ 信心浅けれど本願深きゆえに たのめばかならず往生す。
◎ 信実は沢山の言葉を必要としない。
◎ 経験こそは 生きた良師である。
◎ 物で栄えて心で滅びる。
◎ いのちはすべて平等です。 仏さまの願いのかかったいにちです。
◎ 眼を閉じていると見えてくる。まずは自分の次に最も大切なもの。
◎ 迷い抜く道に立たずば、迷いにさえ気が付かずに終わる。
◎ 飽く事事なき欲望にブレーキをかけないと今世紀で地球ごと人生は破滅です。
◎ ボタン一つでご飯が炊ける時代だけれど,ボタン一つで核兵器も発射する。
◎ リキムだけが力では無い、リキムのを抜くのも力です。
水子は菩薩(ぼさつ)さま
先日、女性の方がたずねてこられて、”水子の供養”をして下さいと言われた。
くわしく聞いてみると、中絶した子が十人ほどで、最近身体の調子が悪いので見てもらったら
(お医者さんでは無い)その人が、水子のタタリやと言われるので、
お経をあげて水子のタタリを鎮めて下さいと言う事です。
人間の身体は微妙なもので特に女性身体は妊娠した瞬間から、
俗に言う十月十日後には無事立派な赤ちゃんを産んで
授乳のためのお乳も出るように、心身共に活動をはじめます。
それを、いかなる理由が有っても、頭で理解しながらも、
途中で胎児だけを取り除いてしまうのだからホルモンのバランスも狂い、
身体の調子がおかしくなるのが当然です。
ましてや十人程の中絶となると、私たちの想像を超えるものです。
それを、何さまにいわれてかしらないが、水子のタタリと言うのはもってのほかである。
自分の都合で中絶した子を、さらに輪をかけるように悪魔のような扱いは考え違いも甚だしい。
まず、私達自身が、縁がめぐり来れば如何なる恐ろしい事もなしうる心の持ち主である事に
気づかさせて頂き、この積み深い私を懺悔し、信心一つで必ず救い取ると誓われた阿弥陀如来さまの
本願を喜び念仏させて頂く身になる事が大事な事です。
そうする時、水子はタタリを与える悪魔的存在ではなく、
私達に人間に生まれる事の有難さ、いのちの尊さをしらしめ、
この罪深い私に『この大切な人生を確かな依り所を持って歩むように』と教えて下さった
仏さまのお使いであったと味合わさせて頂き、いのちの尊さをかみしめながら
あみだ様のご本願を仰いでお念仏申して頂きたいと思うのであります。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 合掌
◎ 合掌ほど誰でも 何時でも 何処でも出来る平凡な善行はない。
◎ 平和な家庭は感謝の礼拝から生まれる。
◎ お仏壇は一家の中心 心のより処である。
◎ 他人を喜ばせれば 必ず自分が喜ばれる。
◎ 撒いた種は遅かれ早かれ必ず芽を出す。
◎ 悩み苦しむ煩悩は 仏を信ずる種となる。
◎ 仏さまを信ずる心は人の心の底に横たわっている これが仏性である。
◎ 飲む水の 一口も仏さまのお蔭である。
◎ 人間は自分の都合の良い人を良い人だと言い 自分に都合の悪い人を悪い人だと言う。
あ り が た い
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変な話で恐縮dすが、友人の父君が亡くなられてお通夜に行って少々振る舞い酒をよばれたせいか、家に着くなり
トイレに入り小用をなした。
勢いをついて出て来る小便を終わってホッとして、トイレから出るときにふと立ち止まった。
いつもなら、”ああいい気持ち”と何も思わず出て来るところだが、今日は何時もとは違う。
お通夜の席で亡くなった父君の死因を聞いて来たからだ。
友人の父君は数日前に急に小便が出なくなり、入院して管を通して排尿したが、期待するほども出ず、
その上、血が尿にまじっていた。そうするうちにも尿が体内に廻り尿毒症を興して、全身が水太りになり唇までも
はれあがってきました。
人工透析(とうせき)手術をするにも、高齢の為不可能とのこと、やむなく腹膜透析と言う手術をしたが、
残念ながら二日程苦しんで亡くなってしまったのだ。
その事を思い出して小便はしたくなったら、出るのが当たり前と思っていたが、そうではなかった。
そう気が付いた時、私はふと立ち止まってしまったのだ。有難い そうだ有難い事なんだ。
私達は自分で生きている心算でいたが、大きな力に生かされて生きていたのだ。我々は毎日の生活に
慣れきってっしまうと、お蔭様と言う事を忘れてしまい、あらゆることに不満をを抱き愚痴をこぼす。
そして、今日、大きな力に抱かれて有る事に気が付かないのだ。
眼を開けば 当たり前であることが、驚きとなる。
眼をひらけばどこにでも 教えが有る。
これは先輩の言葉であるが、心の眼の角度を変えて物事を見てみると、当たり前ではなかった。
有り難い事だ、と、すべてに感謝させて頂けるだろう。
心をほぐすいい話
余裕のある国
1941年5月11日は、ドイツ空軍がイギリス空軍がイギリスを大空襲した日である。
議会の下院議場は無残み破壊され市民は逃げまどい、まさに国難のときであった。
またこの日は、ヒトラー、g-リングに次ぐナチの実力者だったヘスが単身ドイツを脱出し
飛行機でイギリスに飛んできた日でもあった。
ヘスの処遇をどうするかが、その日の下院本会議での大問題であった。
チャーチルは議員に事件の経過を報告しヘスをグラスゴーの病院に収容したと述べた。
やがて質疑応答が始まると、グラスゴー出身の議員が真っ先に質問に立つ。
「そのようなことを公言されますと、グラスゴーが空襲されますぞ。首相には、もう少し慎重な
発言を求めます」
これに対してチャーチルは神妙に、しかし、にやりとして
「ごもっともですな。 しかし、ヘスはいつでもグラスゴーにいると言う事はしないつもりですので
どうかごあんしんを・・・・」
その答えに満場大笑いになった。
次の議員は「ドイツではヘスが狂気乱心したとしきりに宣伝しているようです。
しかし、ドイツではもっと狂気に走っている男(ヒトラーのこと)が総元締めのようですが、
この奇怪な状況について首相はどのようにお考えですか」と 茶化したように質問。
チャーチルは今度は真面目くさって「いずれ詳細を取り調べました上で、お答え申し上げましょう」
ふざけたやりとりに満場は拍手かっさいであった。
これがなんと、頭上で敵の爆撃を受け議場がすっ飛んだ日の答弁である。
戦況が良くない中のユーモア。 こう言う所にチャーチルの強い意志やそれを支えるイギリス国会議員の
成熟した強さが見て取れるのではないだろうか。
これがもし日本の議会であったらどうなっているだろう。
いつもの様に大騒ぎになり議長がバンバン机をたたいている事だろう。
言い過ぎかも知れないが、国の文化は議会に十分表れている者だろう。
そのためにもレベルの高い国会で有って欲しい。
それには、国民一人一人が国会に対して厳しい批判の眼を向け議員の襟を正させる世論を
持つ必要が有る事を肝に銘じて行かなければならない。
(これは政党批判をしているわけでは有りません.念のためのに、宗教はあくまで中立です。)
◎ 誰にでも似たような悩みが有る。誰にでも隠された涙がが有る。胸を開いて素直に語り合い
正しい教えをきき合う所に、明るい人生が開けてくる。
◎ 貸した方は借りた者よりもよく覚えている。
◎ じんせいは、それがどんなものであるかを知らないうちに半分過ぎ去ってしまう。
◎ 十人の子を養う父が有る。一人の父を養いえない十人の子も有る。
◎ 人間は、自分に都合のいい人を良い人だと言い、自分に都合の悪い人を悪い人だと言う。
◎ 信仰は人の善き友であり、この世の旅路の糧であり、この上ない富である。
◎ 真実の信を得るもの心によろこび多し。
◎ 仏の心とは大慈悲である。
◎ 同じ太陽の下の旅なれど曇る日も有り、晴れる日も有り。
許されて生きる
ある時、何人かの人が集まって、知ってて悪い事をしたものと、知らぬ間に悪い結果を招いた者と
どちらが罪が深いかという話になり、勿論知ってやった者の方が罪が重いと言う事になった時、一人の人が、
悪いと知ってやった者は悪い事をしたと言う自覚が有るから、いつか懺悔し詫びる事も出来るが、
悪いと知らずに行った者は悪い事をしたと言う自覚がないから反省し、懺悔する事も詫びる事も無いから
罪が重いと思うといった。
そこで、思い出したのが、先日、NTTの関係の仕事をしている人の話です。
その人が、ある所で電信柱にのぼって工事をしていたとき、電柱の近くであそんでいた男の子に
母親が「遊んでんと宿題せなあかんで」と言うとその子は「主題あれへん」と言う。
すると、その母親が「宿題なかっても勉強せなあかん」と言った。 これは当然のことで、母親の言う事が正しいが、
子どもに勉強させたい一心からか「いま勉強せえへんかったらおとなになってから(電柱の上を見ながら)
[あのおっちゃんみたいに高い所にのぼって仕事せなあかんようになるで」と言ったそうだ。
その子が高いところが嫌いな子だったかも知れんが、電柱の上の人にとってはおおかな侮辱である。
その人は、ムカッと来て下に降りて怒鳴りつけようかと思ったが、NTTの看板が有るから辛抱したけど
腹が立って、腹が立ってと言う事である。
私達は、知らず知らずのうちに、人の恨みをかうような色々な罪深い事を行って来ている。
罪深い私であると気づかさせてもらったとき。
許されて生きている私。生かされて生きている私であったと、お詫びとよろこびで、
日々を送らせて頂きたいものである。
ちょっといい話
女王陛下のキス
2000年7月4日は、20世紀最後のアメリカ独立記念日。
ニューヨーク港には、記念日を祝う洋上式典に参加するため、世界各国の帆船や、海軍の艦艇が集まっていました。
その翌日、ちょっとした事故が起こります。
イギリスの豪華客船、クイーンエリザベスⅡ世号が、ハドソン河の流れに押され日本の海上自衛隊自衛艦
かしまの船首に接触してしまったのです。
クイーンエリザベスⅡ号の船長は船を着岸させると直ぐに機関長と航海士をかしまに派遣。
謝罪のメッセージを送ります。それに対してかしまの艦長はこう答えました。
「幸いにして損傷も軽く、特に気にしておりません。それよりも女王陛下にキスされて光栄に思っております」
この粋な返答は船乗りの間で標板となり『タイムズ』や『イブニングスタンダード』などでも紹介されたそうです。
友 達
今から七百年ほど昔吉田兼好法師が書いた『徒然草』の中に、ともだちになって悪いものが七つあると
書いてあります
最後のうそつきと欲張りは誰でも納得しますが、他の五つは興味をそそられます。
第一に身分の高い尊い人、第二は若い人、第三は病気をしたことのない頑健な人、
第四に酒好きな人、第五に勇猛な武士です。 これらに共通するものは何でしょうか。
それは自分中心にものを考えやすく、自分の欠点や失敗を見直そうとすること少なく、
相手の心や立場を思う事が乏しいと言う事だと思います。
自分は偉いぞ、有名だぞ、能力が有るぞ、体力が有るぞ、自分に反対するとはまちがっている、
言う事を聞けと威張り散らし、相手の言う事を聞こうとしない人であれば、友達にふさわしくない
と言うよりも、友達では有りません。
しかし、私にはそのような傾向はないのでしょうか。これは全く他人事でしょうか。
どうもそうとばかりは言い切れないように思えてきます。今の私は若くも、健康でもなく、能力もなく
有名では有りません。しかし、まだまだ私だってと言うウヌボレが残っています。
兼好法師の言葉は一般論であるとともに私に対して言っているのかも知れないと気付くのです。
本当の私を知ると言う事はとても難しい事だと思います。
しかし、自分を知ることは大切なことです。そしてその私が幸せになることも大切な事です。
だからこそ、そのために仏さまの教えを聞かせて頂く事は必要なのです。
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ちょっといい話
渋茶一杯
昭和30年代、本田技研工業はすーぱーかぶなどの大ヒットを受け、新しい工場を開設することに
なります。何処に工場を作ればよいかと、日本全国にいくつかの候補地があげられ、各地を社長の本田宗一氏
自らが視察に回りました。
それぞれの候補地にとってみれば、大会社の工場を誘致することで多くのメリットが得られます。
そのため、各自治体とも彼の気にいられようと、用地の説明もそこそこに接待ばかりに必死になりました。
そんな中、接待を一切せず、真夏なのにエアコンのスイッチも入れずに彼を出迎えた自治体がありました。
それが鈴鹿市です。
当時の市長は渋茶を一杯出しただけでお茶菓子すら提供しませんでした。
サービスした事と言えば、汗をかいた彼に対して何度もおそぼりをていきょうしたことくらい。
その代り、あらかじめ本田技研が送った質問には懇切丁寧に回答してみせます。
さらにベンチでは市の職員が土地の広さが分かりやすいようにと、炎天の中旗を持って立っていたのです。
これが決定打となり、工場は鈴鹿市に建設されることになり、本田日県鈴鹿製作所がかいせつされました。
鈴鹿市は鈴鹿製作所の完成にあたり、市の名前を『本田市』にすることを彼に提案します。
しかし、本田氏は「伝統ある地名を個人の名前に変えるなんてとんでもない」と丁寧に断ったそうです。
渋茶一杯
ちょっといい話ですね。
◎ 信仰は人生の力である。
◎ 急ぎ仏のまことを得て のちの世の光とならん。
◎ 仏の心とは 大慈悲である。
◎ 真実信心をえたる人をば 如来とひとしと説きたもう。
◎ 信心という重心がすわっていれば転ばない。
◎ ただ信心は聞くにきわまりなきことなり。
◎ 自分の身や心を育てるのに喜びを持つ人は 必ずしも多くはない。
◎ 物で栄えて心で滅びる。
◎ 仏の慈悲に生くるものは 善くねむる。
◎ 昨日を追うな 明日を頼むな 今日を生きよ。
善人でさえ浄土に往生できるのだから
悪人が往生できるのはなおさらのことです
無理に善人を装わず、生きるべき。
「善人でさえ浄土に往生できるのだから、悪人が往生できるのはなおさらのことです。
ところが、世の中の人々はふつう悪人でさえ往生できるのだからまして善人は言うまでもない」
と言います。
親鸞聖人が言われる善人とは善行が積める人であり、悪人とは善行の積めない人の事です。
それなのになぜ、阿弥陀仏の救いのめあては善人よりも悪人だと言われるのでしょうか。
そのわけは。
善行を積んで往生を願う善人は、自分の力の方を信頼していて
阿弥陀仏を信じる気持ちが欠けているからです。
一方善行が積めず自分の力では往生できない悪人こそ、阿弥陀仏なくしては救われない人なのです。
「無理に善人を装わず、自分は阿弥陀様に救って頂くしかない
煩悩にまみれた悪人だと自覚して驕らずにいきるべきである」と
親鸞聖人は私達に教えて下さっています。
◎ 初空や法身の弥陀に合掌す。
◎ 歳旦の芽出度きものは念仏かな。
◎ 浄土を願う人は浄土をつくる人である。
◎ 念仏は無碍の一道なり。
◎ 仏のみ名はすべての迷いを破りすべてのねがいを満たす。
◎ 自らを灯明とし 自らを依処とし他人を依処とせず 法を灯明とせよ。
◎ 起きて一畳寝て半畳 足らざるを以て満足す。
◎ 迷える者は道を問わず 光のない生活には方向がない。
◎ おなじ太陽の下の旅なれど 曇る日も有り晴れる日も有り。
◎ からっぽの容器は一番大きな音を立てる。
薬が有るからと言って毒を飲むな
薬が有るから大丈夫だと言って
毒を飲みなさいとすすめるのは
あってならないことです。
「罪を犯しても阿弥陀様の救いが有るのだから往生できる。
だから悪い事をしても大丈夫」と悪をすすめる門弟を戒めたのが親鸞聖人の上の言葉です。
アミダさもの救いを「薬」悪行を「毒」にたとえています。
薬が有るからと言って毒をすすめてよいはずがありません。
またすすめられたからと言って毒を飲む人もいないでしょう。
だから「悪行はならぬ」と親鸞聖人は断じます。
私達の生活を振り返ってみましょう。
『よく効く薬有るから、お酒を飲み過ぎても大丈夫』と薬をポケットにのぞかせて
暴飲暴食をするようなものです。
親鸞聖人なら『薬を片手にお酒を飲むような愚かなことは止めなさい』
と、諭すことでしょう。
親鸞と浄土真宗 早島大英著 三笠書房刊 より
◎ み名を称うれば、ほとけはつねに、われらに来たりたもう。
◎ 生きながら地獄に落ち、生きながら如来に救われる。
◎ 抱かれて有るとも知らず、愚かにも、われ反抗す大いなる手に。
◎ 人の恐れは愚かからくる。
◎ 悩みを突き抜けて喜びが有る。
◎ 素直に人の言う事を聞く人は最も力のある人である。
◎ 小心者は、頑張って人の言う事を聞こうとはしない。
◎ご恩を知って、その御恩に報ゆる者は、仏と同じ功徳行をしている者である。
◎ 心の苦痛は、肉体の苦痛よりもっと悪い。
◎仏のみ名は、全ての迷いを破り、すべての願いを満たす。
一年の感謝
一年の締めくくりに、感謝と言う事を考えてみたいと思います。
感謝できるような人は幸せで、私だって感謝したい、しかし、感謝する種が無いのだから
仕方がない。世の中は不景気で会社はつぶれ、失業者は増えるばかり、そうなれば
今まで以上に自分の事を考えるようになってしまう。
.正直者がバカを見るの言葉の様に自分だけが貧乏くじをひいてしまう。
感謝どころか不満だらけの一年だったと言われるお方がありそうです。
でも感謝の種を自分の外に求め探したらどんな人でも、一生かかっても遂に
見つけることは無いでしょう。感謝の種は自分自身の中に有るものだと思います。
浄土真宗の生活信条に『常にわが身を省みて感謝のうちに励みます』とあるのは味わい深い事です。
この言葉の全段は「御仏の光を仰ぎ」とあります。
アミダ仏の智慧と慈悲の光に照らされてみると、私の本当の姿が徐々にでも見えてきます。
そうすると、この私を生かし,護り育て、支えてくださる限りない働き、人、物ことのおかげが
目の前に広がっている事に気づくのです。そこの感謝が有ります。
そして、それに対し私のしてきたことの何と自分勝手であったことか、
周りの人がつまらなく見えたのは鏡の中の自分で有ったことがわかるのです。
思い上がって愚痴をこぼしてばかりいた私の、自分にも周囲にも前進をもたらさない
不平不満ばかりの生活から離れ、感謝のできる思いにたどりついたことは、自分の間違いと
世の中の間違いに気づきそれを少しでも正していくおかげに報いる道こそ
建設的人生の第一歩です。
◎真実は沢山の言葉を必要とはしない。
◎ 南無あみだぶつはそれは私の親の名 親が私を呼ぶ声
◎ だれにもにたようななやみがあり 誰にも隠された涙がる
そこにかみしめられる人生の味 ひそかなるみほとけの声
◎ 経験こそは生きた良師である
◎ 物で栄えて心で滅びる
◎ ものごとには因果がある タナからボタ餅の考え程人の努力を無にするものはない
◎ おなじ太陽の下の旅なれど 曇る日も有り 晴れる日も有る
◎ 迷えるものは道を問わず 光の無い生活には方向が無い
◎ 合掌礼拝なきところに 真実の宗教は無い
◎ み仏は 衆生の苦悩有る所にやどり給う
他人様
他人様に認めてほしい
他人様にほめてほしい。
他人様に慰めてほしい
だけど他人はそうあまくはない。他人は私を嘲笑する。叱る。そして時には批判もするし
相手にしない時も有る。
自分は他人様とどう付き合ったらいいのだろうか。
他人は自分のために生きていないことは確かと知る事だ。
親鸞聖人にとっての親子とは
「子どもは親の宝である」
「子どもは夫婦のカスガイである」
子どもは親にとって首かせである」
三つともそんな気がするが、聖人にとっての親や子は、そんな存在ではなかったようだ。
親であろうと子どもであろうと人間的な恩愛の対象では無かったようだ。
一切の有情は皆父母兄弟(同朋・同行)
みんな同じように成仏しなければならない仲間であった。
◎ 心を平らにせよ、心が平らになれば、世界の大地もことごとく平らになる。
◎ 有難い、もったいない、済まないと言う事を忘れている人は一番不幸者だ。
◎他と共に生きる事が、自らを生かす道である。
◎ 先に生るる者は、後を導き、後に生るる者は先を訪ねよ。
◎ やわらかいマリは、かたい鉄球より高くはねる。
人間の本当の強さは自己の弱さを知る底から出て来る。
◎ 常に不十分に満足する、その心構えが大切である。
いたずらに満足をむさぼる者は生命がみじかい。
◎人の悪きことは、よく見ゆるなり、わが身の悪きことは覚えざる者なり。
◎ 人を殴打するのもこの手、仏を拝むのもこの手、いずれを選ぶや。
◎他人が自分を見下げていないかと思うのは、
そう言う人を見れば自分が見下げているからである
◎ 悩みを突き抜けて、歓びが有る。
星は見えない時でも光っている
寒い夜空に、シリウスが光っています。月の出て無い晴れた夜には、一層キラキラ輝いて見えますね。
でも星は何時も見えるわけでは有りません。星は昼間には見えません。
夜になり周りが暗くなって、初めて見えてきます。
しかし、昼間に見えない星は無くなってしまったのでしょうか。そうでは有りません。
星は、昼間でも輝き続けています。まわりが明るいから見えないだけなのです。
仏さま(アミダさま)は私達には見えません。
見えないからいらっしゃらないのでしょうか?いいえ仏さま(アミダさま)は
いつも私とご一緒して下さっています。
私達はずっと仏さま(アミダさま)の事を考えることは出来ません。
それどころか、仏さま(アミダさま)の事はすっかり忘れて過ごしています。
しかし、仏さま(アミダさま)は昼間は見えない星の様に、いつでも私のことを心配し
見守り続けて下さっています。
ほとけさまのお話より
◎ 喜んで事をなし なされたことを喜ぶ人は幸福である。
◎ 汝の過去を知らんと欲せば、汝の現在を見よ。汝の未来を知らんと欲せば汝の現在を見よ。
◎ 十人の子を養う父が有る。一人の父を養いえない十人の子も有る。
◎ 心の苦痛は肉体の苦痛よりも、もっと悪い。
◎ 苦痛の原因を他に求めず 自己に見出すのが仏教の立場である。
◎ 人間は自分に都合のいい人を良い人だと言い、自分に都合の悪い人を悪い人だと言う。
◎ お前は悪いがわしは善いといえるかどうか。
◎ 仏の慈悲に生きるものは よく眠る。
◎ 阿弥陀仏のみ名は悪を転じて徳となす、正しい智慧である。
人生の舵取り
いつも仏さまの教えを聞かせて頂いていますが、幾つになっても死にたくはありません
と言う人が有りますが、仏さまの教えは死にたくなるために聞くのでしょうか。
人間は生物ですから、生存欲、生存本能を持っています。だから死にたいとおもうことは
生物の基本を失ったと言う意味で正常ではありません。広義の病気でしょう。
人生の大事は病気を治して考えるべきでしょう。
人生は無常ですから死にたくても、死にたく無くても寿命が来たら間違いなく誰でも死にます。
それがいつどこで何の理由で死ぬかはその時にならなくてはいくらかんがえてもわかりませんし、
望んだことが出来るとも限りません。
出来ないことはしない、考えないのがよろしい。それを無理やりしようとするから
全体のバランスが崩れます。それが病気です。
親鸞聖人も「名残惜しく思えども娑婆の縁尽きて、力なくして終わる時にかの土へは
まいるべきなり」と言われています。(歎異抄九条)
考えられるのは、その時までどう生きるかです。
お念仏(なもあみだぶつ)申しご恩報謝することは出来るのです。
人生の舵取りの方向を誤らぬようにするのが仏法のお聴聞(仏さまの教えを聞かせて頂く)なのです。
◎ 人の幸福を念ずる人にのみ 真実の幸福は宿る
◎ 自己を知る者は常に正直である 自己を知らぬものは常に不正直である
◎ 不思議なものは沢山ある しかし 人間ほど不思議なものは絶無である
◎ 散る時が 浮かむ時なり 蓮かな
◎ お前が悪いがわしは善いと 果たして言えるかどうか
◎ 死ぬべきものが今生きている 自分の今日をよろこびたい
◎ 恩を知るは大悲の本なり 恩を知らざるをば 畜生と名づく
◎ 腹を立てる姿は醜く 忍耐の姿は美しい
◎ 長生きをしようと思うならば 若い時からその計画を立てて生きよ
◎ 富める人は 有るものに執着し 貧しい物は 足りないことに苦しむ
苦しみを軽くしてくれるのが信仰
真宗は加持祈祷や怨霊封じなどは一切しない。
だから真宗は信者が減るとも言われているがそれは真実ではない
不幸や苦労から逃げたり、追い散らそうと思ったって
苦しみは無くなるものではない。
苦は苦としてもらいきる時に苦は無くならないけれども軽微となることを
生活の中で体験したい。
信心と信仰
信心と信仰は似ているようですが、少し違います。
信心する人は除災招福を神仏に一方的に頼もうとするのです。
祈ったからと言って災いが除かれ福が来るのではないのに
信仰する人は苦を貰いきろうとする人です。
授かった苦をもらいきれば、必ず次の苦は少なくなり、福も訪れてきます。
信仰とは仏さまからのお慈悲を信じ仰ぐことです。
『二十代』での話。
自作の誌『花』
ぼたんの花が咲きました
すばらしい彩に咲けました
あの娘はきっと
ごめんなさいといっているのだ
そうでなくて
あのように清らかに咲けるものか
教室で先生は若い女子学生にこの詩の感想を聞いたそうだ。
「ごめんなさい」ではおかしいのではないか。
「ありがとう」の方がふさわしいと言う意見が出たと言う。
「そうかじゃ花が咲いたのは、ひとりのちからかな?」
「葉、江田、茎、根の働きが有ります」
「それだけか?」
「土、水、太陽、肥やしのはたらき・・・・・・棒も有る。支えてくれる棒。それは友達のはたらきのこと」
「「なるほど。そのことが、咲きましたから酒真下への深まりなのだね。
で、娘とあるのははなのことだけ?」
「むろん私自身の意味も有ります」
「じゃあなたが二十歳になって、美しく咲けたのは、
まずご両親や周りの人たちの働きだね。それに対してあなた自身を
ふり返ったら(ありがとう)か(すみません)かどっちがほんとうの気持ち?」
あっ、先生。やっぱり(済みません)の方がぴったりでした」。
こんな念仏の心を語りかける先生に教わる娘たちがうらやましい。
◎ 朝の無い夜は来ない
◎ 子どもは親の鏡である
◎ 善も一生 悪も一生
◎ 反省は進歩の宝である
◎ 欲の袋には底が無い
◎ 鏡は心のありさまをうつす
◎ 合掌は家庭教育の基本
◎ 気にしても苦にするな
◎ 仏具を磨くのも心の修行
◎ 怒れば地獄 貪れば餓鬼 恥を知らぬは畜生
山の道・町の道
バスで峠の山道を越える。曲がりくねった狭い道を、バスは車体一杯に走る。
むこうから下りのバスが来る。車は停車し、車掌さんの誘導でバックし、上手にすれ違って
やおら発車する。運転手さんはおうような身振りで、たがいに会釈を交わして、ハンドルを切る。
トラックが来ても、コンバインが来ても、刈り草を積んだリヤカーでも、同じ繰り返しだ。
ふと、都会の雑踏をおもう。辻から走り出る車、その前を突っ切る車、追い越しざまに
割り込んでくる車。 互いの優先を主張してクランクションを鳴らし、怒号する。
たちまち車の数珠つなぎで、交通はマヒ状態となる。
広くてピカピカの舗装道路も、我勝ちにひしめく人の手で道が道でなくなってしまう。
狭い石ころ道でも行く人の心ひとつで立派な道たらしめる。
道を道として生かす心とはどういう心なのか。
道が道でなくなるときには、必ず無理がそこにある。
無理が通れば道理は引っ込む。
自分が正しい、自分さえよければそれでいい、
自分の思い通りにならないと、我慢がならないと言う心。
それは道理を無視し、道理を踏み破る心。
そう言う自分に気づかされて、「あ、道理に外れていた自分だった」とうなずく心。
それが道を道として生かす心のいとぐちなのだ。
無理が通ればどうりはひっこむ。
無理を気付けば道理にしたがう。
ゆずり合う心。 助け合う心。今の自分に欠けてはいないか。一度振り返ってみたいものです。
◎ 釈迦の説く因果応報何事も善因善果悪因悪果
◎ 食事の心「食」という字は人を良くすると読む
◎ 大切なことは「他を愛する」事だ これを幸せと言う
◎ ただ一つの命 たった一度の人生を大事にしたい
◎ 良い事はおかげさま 悪い事は身から出たさび
◎ 悪い事は早くやめ善い事は早く実行し続けよう
◎ あんたが悪いと指差す三本の指は自分に向いている
◎ 偉い人かどうかは他人が決めてくれること
◎ お寺は心のふるさと 命のふるさと 先祖のふるさとです
◎ 「かんしゃく」のくの字を捨てて日を過ごせ『感謝』
太陽や大地や水の恵みを受け
お米や魚の命をいただき
生かされて生きている私
お米や魚を食べると言う事はお米や魚の命をいただくということ。
ほかの生き物の命をぎせいにして自分が生かされている。
その食べ物は、太陽や、水や、空気や大地のお蔭で育つ事が出来た。
だから、何から何まで宇宙万物一切の恵みを受けた、そのおかげさまで
私は今生かされている。
しかし、普段はそのことを忘れてしまっている。与えられている命を我が物とし
「我が命」を生きていると錯覚をしている。
この命は私のものではない、宇宙万物のいのちなのだ。
そのことに気づき感謝する気持ちが南無阿弥陀仏。
◎ 信仰は人の善き友であり この世の旅路の糧であり この上ない富である。
◎ 青春は人生にたった一度しかない
◎ 心労は人生にとって敵である
◎ 人生における無上の幸福は 我々が愛されていると言う確信である
◎ 貸した方は借りた物よりよく覚えている
◎ 先祖を敬う者は 子孫から敬われる
◎ 両親を大切にしましょう
◎ 兄弟姉妹は助け合いましょう
◎ 世の中人のために働きましょう
◎ 社会のルールを守りましょう
タンポポから人生の真実を学ぼう
タンポポは大地にしっかり根をしっかり根を下ろしているから
どんなに踏みつけられても、また食いちぎられても死に絶えることはりません
タンポポの花は小さな花ですが、明るく美しく咲いています
決して小さいからと言って卑屈にならず
床の間に飾られることが無いかと不平不満を言いません
大きく見せびらかす事も無く空にまっすぐ向かって
自然の恵みのままに咲いています
このタンポポと言う野草から強く明るく生きる道を教えられます
タンポポのような人生でありたいと心から願います
◎ 我も人、人も人、みな同じ人。
◎ 生かされて生きる命を大切に。
◎ 受けて忘れず 施して語らず。
◎ 美しさとは働いた後の汗の顔。
◎ 親と子が共に合掌仏前に。
◎ 薬も多量にすぎると毒になる。
◎ 心に花を先ず合掌の姿より。
◎ 言葉遣いは心遣い。
◎ 小さな幸せを大きく喜ぶ。
◎ 手を合わす心で 小さな親切。
福の神と貧乏神
ある家に、一人の美しい女が着飾って訪ねてきました。その家の主人が「どなた様でしょうか?」と
尋ねますと、その女は「私は幸福を与える福の神です」と答えました。そこで主人は喜んでその女を家に上げげ
手厚くもてなしました。 そのすぐ後から今度は粗末な身なりをした醜い女が入って来ました。
主人が「お前は誰だ?」と尋ねますと、その女は「私は貧乏神です」と答えました。主人は驚いてその女を
追い出そうとしましたところ、その女は「実は先ほどの福の神は私の姉なのです。私達姉妹はいつも離れた
事は有りません。ですから「もし私を追い出せば姉もいなくなりますよ」と言いました。
その女が去って行くとその言葉通りにあの美しい福の神の姿も消え去って行きました。
これは『仏教聖典』と言う本に載っていた話ですが、全くその通りだとは思いませんか?
善い事も有れば、悪い事も有る。幸いも有れば災いも有る。それが私たちの人生だと思われ
ませんか? 善い事ばかりの人生も無ければ悪い事ばかりの人生も有りません。
ですから、少し善い事が続くからと言って有頂天になってのぼせ上がるのも危険なことですし
また、少し悪い事が続くからと言ってむやみに落ち込んで無気力になることも、これもまた、
馬鹿げたことです。 善い事が続いている時も、悪い事が続いている時も、是非、今一度このお話を
思い出してください。
◎ 過去が花と咲いている今 未来の蕾で一杯の今。
◎ 自然の春は太陽が呼び 社会の春は人間が創る。
◎ 感謝で暮らす生活には 不幸が入る余地がない。
◎ 十方衆生みな救われて 私ひとりの南無阿弥陀仏。
◎ 人生は二度ない しかし 出直すことは出来る。
◎ 先祖を粗末にすれば 自分が粗末にされる。
◎ 先祖をよく敬う人は 子孫の事もよく考える。
◎働きは最良の健康法であり 長寿の秘法である。
◎ ろうそくは 身を炎にして 暗い闇を照らす。
◎ 和顔愛語 おはよう ありがとう ご苦労さん。
幸せの根源とは
幸せの根源とは何かを考えた事が有りますか。
私達が幸せと感じる瞬間の事を考えてみましょう。
どう言う時に一番強く幸せを感じるでしょうか。
それは多分生きていると実感したとき、生きていて良かったと思えるとき
そして、自分の中にある命が輝きを増したように感じる時ではないでしょうか
私達は命が有ること、生きている事を当たり前だと思って生活しています。
『手が動く足が動く』=当たり前 『腹が減る食べる』=当たり前
『疲れた眠る』=当たり前 すべて当たり前だと思っていて
『命が有るおかげ』とは気が付きません。
命が幸せの根源であることに中々思い至りません。
当たり前が無くなれば途端に幸せの泉が枯れてしまうのです。
私は人の幸せはどんな境遇にあるとも、どういう仕事をしていようとも
この『命の尊さ』を見つめる事から始まると思うのです。
◎ 我も人 人も人 皆同じ人
◎ 生かされて生きる命を大切に
◎ 受けて忘れず 施して語らず
◎ 美しさとは働いた後の汗の顔
◎ 恩は切るもの きせないもの
◎ 薬も多量にすぎると毒になる
◎ 心に花を 先ず合掌のすがたより
◎ 心のかなめは”おかげさま” (感謝の心)
◎ことばづかいはこころづかい
◎ 最後まで頼れるのは自分だけ
不運を嘆いている前に
やることを やらねばならぬ
他人の家庭は外から見ると幸福そうですが、
内に入ってみると各家庭がそれぞれ不幸をかかえているものです。
そしてそこに「やっかみ」 「ねたみ」 「あせり」が生じてくるものです。
これはよくないことです。実はこれが本当に不幸なのです。
死を我がこととしてどのように受け止められるか、
その度合いの強弱に比例して今日生かされている事の意味も
喜びも実感としていただく事が出来る。
そこにはおのずから授かったこの一日の生き方も見えてくると言うものです。
◎ ウソ聞いて喜んで 本当聞いて腹立てた
◎ お蔭さまの心でてらせ 明るい社会
◎ 俺もお前も仏に成る 南無阿弥陀仏
◎ 苦しく悲しい時の辛抱 幸福な時の合掌
◎心を耕し養分を与える それが信仰です
◎ させていただける 己が身をよろこぼう
◎ 全世界を知っても 自己を知らぬ者あり
◎ 焚くほどは風が持ち来る落ち葉かな
◎ 手を合わせ心を合わせて しあわせに
◎ なくてはならぬ人 そんな人になりたい
物の見方 考え方.
私達の日暮らしでの物の見方 考え方はたいがい反対逆さまに
なっているようです。逆転メガネをかけて暮らしているのかもしれません。
仏さまがごらんになると逆さまだとおっしゃる。
おのれの欲望だけで考えて他人の事は考えない逆さま
おのれの人生を見つめずして 今日一日の事に明け暮れる逆さま
お蔭さまよりお金さまという逆さま
足ることを知らずもうちょっと もうちょっととむさぼる逆さま
一ペン仏さまのメガネをかけて自分を見直さないといけませんね。
これは私のこと
◎ 微笑みは 暗の夜を照らす 月明かり
◎ ほめ合う所に進歩と向上が有る
◎ 世の中に無駄なものは何一つない
◎ 楽あれば 苦が顔を出す娑婆世界
◎ いろいろの自分が見てる この「私」
◎ 老いも死も他人事ならず 己が道
◎ 希望に生き 愉快に働き 感謝に眠る
◎ 幸 不幸 運 不運は自分が作るもの
◎ 心はデリケートだから大切にしたいなぁ
◎ 自分の経験した事を話せば感銘を得る
思い通りにならぬ世の中
思いを超えた物を
思い通りにしようとするから
この世が地獄になる
お金がもっと欲しいと言う願いは、努力すればそれなりに叶えられる
しかし、重い病気になって、なんでこんな病気になったのだろうと
愚痴ってみても病気は治らない
また、死ぬのはいやだと思ってみても自分の自由にはならない
年をとるのはいやだと思っても月日と共に否応なく年を取る
老 病 死は人の思いを超えたものである
それを忘れて私の力で何とかしよう 何とかできると錯覚するから苦しむのです
人の思いを超えたものは 仏さまにまかすしかない
大慈悲心の阿弥陀仏なればこそ 助かりようのない凡夫を
憐れみを以てお救いくださるのです
◎ 壁の向こうの隣人は、海の向こうの兄弟に勝る。
◎ 言葉は矢ではないが、心を突き刺す事が出来る。
◎ 節約すれば儲かり、繕えばボロを着なくても済む。
◎ どんなに首を伸ばしたも、頭より高くはならない。
◎ 目には気をつけよ、口よりもよく心を映しだす。
◎ 最も美しい花が、最も香りが良いとは解らない。
◎ 山が来なければ山の方へ行かねばならない。
◎ 「ハイ」と言う答えは、耳に快い。
◎ 人にはやさしく、己にはきびしく。
◎ 仏心より、愛の言葉が湧き生ずる。
め ぐ み
太陽や大地や水に恵みを受け
お米や魚の命をいただき
生かされて生きている私
お米や魚を食べると言う事は、お米や魚の命を頂くと言う事。
ほかのいきものの命を犠牲にして自分が生かされている。
その食べ物は太陽や水や空気や大地のお蔭で育つ事が出来た。
だから、何から何まで宇宙万物一切の恵みを受けた、そのお蔭様で私は今生かされている。
しかし、普段はそのことを忘れてしまっている。
与えられている命を我が物とし「我が命」を生きていると錯覚している。
この命は私のものではない。宇宙万物のいのちなのだ。
そのことに気づき感謝する気持ちが南無阿弥陀仏
◎ いそしみはげむ者は 常に楽しく安らかなり
◎ 美しい花が咲いた 隠れた根のおかげです
◎ 美しい花のかげには かくれた根の力が有る
◎ お金の亡者はたまればたまるほど汚くなる
◎ 限りなき光は 限りなき闇を照らし尽くす
◎ 暮らしに光を求めて 自らの行動をつつしむ
◎ 心を耕し佛種をまけば 思いやりの芽がでる
◎ 罪業深重 煩悩具足とは この私のことです
◎ 人生に定年はない 古稀も八十寿もみな現役
気になる
昨日の事が気になる
明日の事が気になる
今の私はいない
過去の失敗を、いつまでも悔やんでくよくよする。
明日の仕事は初めての事なので、うまくできるか不安で仕方がない。
こんなことでは、このいまの生活に身が入らない。
過去の失敗は、何が原因か十分に反省して、これからの仕事に生かせばいい。
失敗したことをいつまでも悔やんでいたも、覆水盆に返らずである。
初めて取り組む仕事は、今から出来る限りの準備をすれば良い。
心配しても物事がうまく運ぶわけではない。
今日一日、自分が出来る限りのことを尽くせば、たとえ失敗しても後悔は起こらない
毎日毎日を、今日一日の命と思って、生きる事が大切だ。
◎ 何不足、自分で作れぬ物に生かされて。
◎ 人間は生かされて生かして生きている。
◎ 人には厳しく、自分には寛容な人が多い。
◎ 本当の事情はその人でないとわからない。
◎ 丸い心こそ仏の心。心安らかな一日を。
◎ 無理なく無駄なくむらなく暮らせ。
◎ ローソクは自分の身を減らして他をてらす。
◎ 私に「親切」をさせてくれてありがとう。
生きている人が迷うから、死んだ人が迷う。
◎ 生きてます 生かされています この生命。
おかげさまで
お蔭様で、生かされて生きている見えない「かげ」の力で
「お蔭様で、元気にやっております」
よく挨拶に使う言葉です。「かげ」に「お」と「さま」を付けて尊敬している。
「かげ」というものは見えないものであります。その見えないものに感謝しているのです。
では「かげ」と言うのは何でしょう。
私たちが毎日食べているお米は農家の人が田植えをして肥料をやり雑草を取り、
初めて収穫できるもの。
農家の人のお蔭です。 しかし 、それだけではありません。
太陽の光も必要だし水も空気も必要です。
それらの目に見えない力がはたらいていて、私たちの食料となあるのです。
目に見えないはたらきに感謝する言葉
それが「おかげさま」です。
私達は目に見えない大きな力で生かされて生きているのです。
◎ 安らぎは自分のこころより。
◎ 雪の下にも春の芽は有る。
◎ 理屈を言うより汗を流そう。
◎ 生きているうちに行ける寺。
◎ お願いする前にまずお礼。
◎ 今日を頑張る、そして、今。
◎ 快い汗を流して頑張ろう。
◎自分の点数て何点だろう。
◎ 先祖ありて今の自分が有る。
◎ 父母の拝む姿を見て孫育つ。
趣味と老後
歳をとって趣味のないのはみじめだといい、
中年以後の人が、盛んに公民館や文化教室に通って楽しんでいる。
自我を楽しむこともよい事だが、しかし、もっとユニークでしかも取り組みやすい趣味が有る。
それは、他人と深く多く交際する事だ。
年齢のちがった人、職業のちがった人男女性別のちがった人、
などとつとめて語り合い、親しく触れ合う事だ。
みんな同朋同行だもの。
不可思議な生命誕生
人間としてこの世に生を受けると言う事は大変難しい事である。
母親からは生涯約四百の卵子が、父親からは約六千億の精子が出る。
すなわち、数多くの生命誕生の可能性が有るわけだ。
その両親から、現在は平均して一・八人の子どもしかこの世に出てこない。
この世に生まれた生命の誕生は誠に稀なこと、ふしぎなことなのだ。
人身受け難し・・・・・・・ああ不思議な事よ。
◎ 「ハイ」と言う答えは耳に快い。
◎ 人にはやさしく己にはきびしく。
◎ めざめよう すばらしいおのれに。
◎ 礼儀が乱れていると、心も乱れる。
◎ 言葉は精神の脈拍である。
◎ あきもせず 同じ失敗の繰り返し。
◎ いたわりは 人にも物にも草木にも。
◎ 一日は朝の「おはよう」から始まる。
◎ 嬉しい時も悲しい時もみ親(仏)の袖にすがりなん。
◎ 亡き人は遠くに居給わず 常に我がそばにいて我を守り 導き給う。
十人の親を養う子がいる
十人の子を養う親有り 一人の親養わぬ十人の子有り。
これは約3000年昔のお釈迦さまの言葉である。
ひとりの親をも養わない子がいる。
他人の子まで養う親がいる。
他人の親まで養う子もいる。
ひとりの親も養わない子は理屈っぽく養わない言い訳をしたり、
小さい孝行を大きく誇張して物を言う。
他人の子や親まで世話をする人は、案外口数少なく
さりげなく世話をしている。
情けは人の為ならず
人を楽しませる人は必ず、人から楽しみを受ける。
人に親切にすると必ず親切にされる。
人に施しする人は、いつかはその人ばかりでなくとも他からの施しを受ける。
他からの見返りを求めて施しをするときは情けは帰ってこない。
人に施しをしないのに施しを求めたり受けたりする人は
特権階級か支配者だけである。
◎ ご先祖さま 拝む姿に「幸」宿る。
◎ 知りながら つい忘れがち 親の恩。
◎ 他人を無視すれば、自分もむしされる。
◎ 作る身になって食せば、みんな栄養。
◎ のびるほど 下に手をつく 柳かな。
◎ 稔ほど頭を垂れる稲穂かな。
◎ 一粒の米を軽んずる者は 心貧し。
◎ 流れる水は腐らない、日々これ法悦。
◎ 人の世は、一歩一歩上る石段の如し。
◎ 人には優しく、己には厳しく。
おかげさま
おかげさまで
生かされて生きている
見えない『かげ』の力で
「お蔭様で、元気にやっております」
よく挨拶に使う言葉です。『かげ』に『お』と「様」を付けて尊敬している。
「かげ」というものはみえないものである。
その見えないものに感謝しているのです。
では『かげ』と言うのはなになのでしょうか。
私たちが毎日食べているお米は農家の人が田植えをして、
肥料をやり雑草を取り、初めて収穫できるもの、農家の人のお蔭です。
しかしそれだけではありません。
太陽の光も必要です。水も空気も必要です。
それらの目に見えない力がはたらいていて、私達の食糧となるのです。
目に見えないはたらきに感謝する言葉、それが「おかげさま」なのです。
◎ 見えそうで見えないものは、自分の短所と欠点である。
◎ みんな仲良し仏の子、仏さまに手を合わそう。
◎ 悲しい時は泣くもよし、み仏さまが涙を拭いて下さる。
◎ 健康管理も信仰も、各自銘々のものである。
◎ 先祖は生の始めなり。父母は形の始めなり。
◎ 米一粒、水一杯、紙一枚の中にも仏様の生命が宿っている。
信仰に深浅はない。素直で、明るく、楽しい物でありたい。
善人と悪人
人は自分に都合のいい人を善人と言い、自分に都合の悪い人を悪人と言う。
そう言う人は他人にどう言われているのであろうか。
きっと多くの人に悪人と言われているかも知れない。
善人はいつも人の都合の良い事を考える人だと言われる。
自分に都合のいいことだけを考えていると他人に疎んぜられる。
頭・気・心
他人と付き合いするのに、頭をつかう、気をつかう、心をつかう。
誰もが経験する気配りの三条件だ。
頭だけをつかうと冷淡になる。
気だけつかうと他人行儀になる。
心だけをつかうと息苦しくなる。
頭・気・心をつかう事は必要な事だが、三つのバランスが大切なのだろう。
また使いすぎないように、使い足りないように気を付けよう。
◎ 幸福はまず何よりも健康の中にある。
◎ こだわらない心が長寿に通ずる。
◎ 病気になるまで健康の値打ちはわからない。
◎ 陽気でいることが、肉体と精神の最上の健康法である。
◎ 初春を迎えた喜びはまずみ仏さま、ご先祖さまへの感謝から。
◎ あなたの名前には両親の願いがこめてある。
◎ 志を立てるのに遅すぎると言う事はない。
◎ どう生きどう死ぬかが一番大事なことだ。
◎ 泣いて暮らすも一生、笑って暮らすも一生。
◎ 自らを幸福と思わない者は、幸福でない。
お正月
あけましておめでとうございます。
私たちのお寺では1月1日から1月7日までを修正会(しゅしょうえ)と言っています。
月や星にロケットを飛ばす時、軌道修正と言って、舵を正しく取り直しますが、これと同じように
修正会も、私と言うロケットが正しく仏さまの国に向かうように軌道修正をする日なのです。
一年間を振り返って、私たちの生き方が間違っていなかったか、正しくお浄土に向かって歩いてきたかと
舵を取り直すのです。
大晦日のテレビを見ていますとどこのお寺もお宮も初詣での人であふれています。
「家内安全」と言って、自分の家のものだけがケガも病気もしませんようにとお願いしたり
「今年はいいことありますように」とか「商売が繁盛しますように」と頼む人が多いのです。
「勉強しなくても良い成績が取れますように」とか「宝くじが当たりますように」などと勝手なお願いを
するひともあります。何処に行ってもこんなお願いを聞いて下さる神様や仏さまはありません。
私達は楽や得だけを欲しいと思いますが、苦と楽、損と得とは紙の裏表のようなもので離れられないのです。
暑い夏を過ごしたから涼しい秋が嬉しいし、寒い冬を耐えてきたから暖かい春が待たれるのです。
ずっと、春や秋のように良い気候ばかりですと、うれしいとは感じられない事でしょう。
損は嫌いだから、苦は嫌だからといっても、損をし苦しみを味わってこそ、得や楽しさが分かるのです。
丁度板の表だけを残そうと思って、裏を削っているのと同じです。
いくら削っても表のある間は裏は裏です。
裏が無くなった時には表も有りません。片方だけと言う訳にはいかないのです。
仏さまの智慧を頂くと、自分勝手なお願いの間違っている事がよく分かります。
私たちが仏さまにお参りするのは、何かお願いをするのでは有りません。
大自然に守られ生かされている身を感謝し、年の初めの修正会には都合の良い事ばかりを求めている
自分の心を見つめて仏の教えにてらし、生き方の舵をとりなおしたいものです。
ほとけの子 青柳田鶴子著 法蔵館刊より
◎ 幸福はまず何よりも健康の中にある。
◎ こだわらない心が長寿に通ずる。
◎ すべての人にその個性の美しさが有る。
◎ 病気は千もあるが健康は一つしかない。
◎ 病気になるまでは健康の値打ちは分からない。
◎ あらゆるものは互いに生かし合い
互いにあらゆるもののおかげで生かされている。
◎ 志を立てるのに遅すぎるということはない。
◎ 心の眼が開けるのは苦悩にであったとき。
◎ どう生きどう死ぬかが一番大事なことだ。
◎ 種を蒔いたら刈り取らねばならない。
自分のこころ
自分の事は、自分が一番よく知っていると思っていますが、仏さまの教えを聞いていると、
一番わかりにくいのが自分だと言う事に気が付きます。私たちの目は外に向かってついているので、
外の事はよく見えるのです。
「あの人はよくばりだなぁ」とか「あの人はずるいなぁ」とか、人の事はよく目につきます。
でも内側を見る目はついていないので、自分を見ることはむずかしいのです。
ちょっと都合が悪いので見る気がしないのかも知れません。何故って、自分の事がよく見えると、
何ひとつえらそうにできる事が無くなるからです。
だいいち、今着ている服、はいている靴、住んでいる家、食べるもの、このどれを考えても、
自分で作れるものは有りません。
みんな大勢の人たちが働いて作って下さるお蔭で、何不自由なく暮らせているのです。
私のお金で買ったと言っても物を作ってくださる人がいないと買えません。
えらそうにできないだけではないのです。もっと都合が悪い事に、目を閉じて心の中を覗いてみますと、
嫌な事がいっぱい見つかるのです。
お友達が珍しいものを持っていると、自分も欲しいなぁと思いますし、テレビのコマーシャルを見ても、
すぐに欲しくなる心がいっぱいです。ちょっと何かの成績が上がると、いばりたくなるし、
妹や弟には、ちょっといじわるをしてやりたい心が見えるのです。
いつもは外を見る目に邪魔をされているから見えにくいだけなのです。
親鸞聖人は「自分の心の中を覗いてみると、蛇やサソリのようにいやな心がいっぱい詰まっています」
と、はっきりおっしゃいました。
いつもえらそうにしている人は、自分の心がわかっていないのだと思います。
自分の心が解ると、よくばりの人を見ても、いじわるの人を見てもえらそうにする人を見ても、
怒りん坊を見ても、みんな人の事とは思えません。
自分も同じ心が潜んでいるからです。
そして、いつでも「自分さえよければいい」と言う心がいっぱいなのです。
なかなか見えにくい自分の心を正しく見つめる事の出来る人は素晴らしい人です。
青柳田鶴子著 ほとけの子 法蔵館刊より
◎ 生ずるも独り 死するも独り
◎ 笑いは良き血をつくる
◎ 心広ければ体豊かなり
◎ 安眠は心労の最上の療法である
◎ 自分で薪を割れ 二重に温まる
◎ 立って半畳 寝て一畳 天下取っても二合半
◎ 仏の心と言うものは 大慈悲そのものである
◎ おのれを忘れて 他を利するは慈悲の極みなり
◎ 善人なおもて往生とぐいわんや悪人をや
◎ 人間に生るること大きなる喜びなり
赤い血
私は昨日ジュースの缶を開ける時、アッと言う間に指先を切ってしまいました。
赤い血がポタポタ流れました。皆さんも血を流した事が有りますか?
爪と髪の毛以外はどこを突いても血が出ます。
切ったり突いたりしなくても、手のひらを太陽に透かして見ると赤いのは血の色です。
だから昨日指を切った時赤い血が噴き出したのです。
手首に触れてみるとトクトクと脈を打っているのが解ります。
これは心臓から押し出された血がそこを通っている証拠です。
この血が、私たちの体の隅々まで流れて、酸素や栄養を運んでくれています。
一人の人間の血管を一本にのばして計ってみると、なんと九万キロメートル有るそうです。
この沢山の血管に全部血が流れていないと、そこは冷たくなって腐って行きます。
こうなると、手でも足でも手術して切り取らないと死んでしまうのです。
体が暖かくて、思った通りに動くのは血が循環しているお蔭です。
大ケガをして出血が止まらなければ、命はなくなります。
この大切な血はいったいどうしてつくられるのでしょう。
それは、私たちが毎日「いただきます」と言って、何気なく食べている食べ物が
この血をつくってくれるのです。お米のご飯も、牛乳も、体の中に入ると、大切な血に
なります。今夜はカレーだとしますと、この間まで牧場で遊んでいた牛がその命をくれたのです。
畑で太陽を浴びて葉を繁らせていたニンジンやジャガイモもその命を私にくれたのです。
お魚のおかずだとすると。昨日まで海に泳いでいたイワシやイカやカレイなどが自分の大事な
命を私達にくれているのです。これら沢山の命を頂いて出来た血が、いま私たちの血管を
ながれています。この体があたたかくて飛んだり跳ねたりできるのはそのお蔭です。
ものをたべるときには生き物の命を頂きます「いただきます」と手を合わせて、
頭を下げずにはおられませんね。
分かっているようでつい当たり前と思っています。もったいないことですね。
◎ 花にはかおり、人には持ち味。
◎ 求めんと欲せば、まず与えよ。
◎ 山見えぬ山ふところの栗林。
◎ 喜びを糧とし、悲しみに学ぶ。
◎ いつもニコニコ、優しい言葉。
◎ 因縁が無ければ、何も生じない。
◎ 拝みあう家庭に悪は育たない。
◎ 拝みあう心に生きる愛と信。
◎ 感謝の気持ちが、いい顔をつくる。
◎ 原点にかえれば、道は必ず開ける。
報恩講
報恩講をお迎えするたびに、今年もこのご縁にお会いできたことを、つくづく有難いと思います。
限りある身の、今日を今を生きていられる事に感謝いたします。
ご開山親鸞聖人は九十年のご生涯をかけて私の為にアミダ様のおしえを、浄土真宗の教えを
説いてくださいました。その御恩はどのように報じ、どのように感謝してもしきれるものではありませんが、
報恩講にはひとしおその思いを深くすることです。
浄土真宗の教えは、私の大切な親様が、アミダ様であることを気付かせてくださいました。
親様のお導きのより、真実のしあわせに向かって強く明るく生き抜いていけることを
教えて下さいました。私が報恩行を行なえるには、浄土真宗のお寺でその教えをしっかり聞かせて
頂く事が大切でしょう。何を聞かせて頂くのでしょうか。
私が人間として生まれて良かったと言える一生をおくる活力を聞く事です。
お念仏の教えが生きる喜びを育てて下さることを聞くのです。
念仏に縁のある人もない人も、こぞって幸せになるために、念仏の輪を広げたおいものです。
その心が自分のものとなっていく事こそ。報恩講でありましょう。
月々の法話 鷹谷俊昭師著 探究社刊より
◎ 心労は人生にとって敵である。
◎ 生きて甲斐有り 死して悔いなき一日が我らの生涯をゆたかにする。
◎ 人生における無上の幸福は われわれが愛されていると言う確信である。
◎ 人生とは 運命がなみなみとつがれている盃である。
◎ 貸した方は借りた方よりよく覚えている。
◎ 人生はしあわせものには短く 不幸せな者には長ったらしい。
◎ すべての悪をなしてはならぬ よろずの善を行なえ 銘々の心を清くするのが仏法である。
◎人生は それがどんなものであるかを知らないうちに半分過ぎ去ってしまう。
◎ 人生における大きな喜びは 君にはできないと世間が言う事をなしとげる事にある。
◎ 喜んで事をなし なされたことを喜ぶ人は 幸福である。
教えを受ける気持ち
どんなにいいお医者様でもいいお薬がないと病人は治せまいし、
そのようにして作られたお薬でも病人が飲まないと治りません。
お釈迦さまが説かれたいい教えの優れた苦しみを救って下さる方法が有りましても、
それを受ける気持ちがないと大きな悩みを持ち続けた一生となって大変不幸な話です。
例えばある人が深い穴に落ちたとします。その時、力のある人が太い綱を下げて
助けてやろうとします。
この時落ちた人がつかまろうと努力する、いわゆる信仰の力で太い綱にすがりつくように
すればいいのです。あの み仏さまの強いお慈悲と強いお救いの力を示してある教えに
力強くすがる。この三つの力がそろって初めて幸せになれるのです。
合掌
◎ 言葉だけ美しくて実行を伴わないのは 色あって 香りのない花のようなものである
◎ 合掌してごはんを頂けないような人は 不幸な人だ
◎ 金を貯めて自信を自信を得ている人がある 金が無くなれば崩れる自信である
◎ おなじ太陽の下の旅なれど 曇る日も有り 晴れる日も有り
◎ 生きながら地獄におち 生きながら仏に救われる
◎ 本願を信じ念仏申さば仏になる
◎ 足るを知らざる者は富むといえども 貧し
◎ 心の苦痛は 肉体の苦痛よりももっと悪い
◎人間は自分に都合のいい人を良い人だといい 自分に都合の悪い人を悪い人だと言う
◎ 喜びに達して 感謝が湧く 感謝は人生最大の凱歌である
布施
世間の家庭では「親切」が物差しになっています。
ことあるごとに「親切にしてあげなさい」と言いますが、
しかし、仏教者の家庭では「布施」が物差しなのです。
やらせて頂いた方が感謝するのです。
そうするとどんな時でも幸せになれるのです。
親切では、相手が「有難うございました。これで助かりました」
と、お礼を言ってくれないと「喜び」になりません。
相手の反応に応じて幸せになったり腹を立てたりしているわけです。
それでは幸せになりません。
真の幸せになるためには「布施」の思想しか有りません。
その背後には自分は不完全な人間なんだから布施をさせて頂くんだ
と言う心があることをご理解頂きたいのです。
◎ やり直しのきかない 誰にも代わってもらうことのできない 今日一日。
◎ 人間に生まれて良かった 私が私に生まれて良かったと 心の底から叫ばれる時に初めて成人になる。
◎ やり直しのきかぬ人生であるが 見直す事が出来る。
◎ よい人にあって教えられ 悪い人にあって反省すれば 善悪共に有難い。
◎ 誰のことばからも 何かを聞き取ろうとする人は 常に進んでいる人である。
◎ 人生の帰るべきところを持たなければ たとい八十で死すとも若死にである。
◎ 智慧を求めるものは いつも若い。
◎ 一切に対して わたしは初心でありたい。
◎ 何も知らなかった日のあの素直さにかえりたい 一杯のお茶にも手を合わせて頂いたあの初めの日にかえりたい。
バックミラー
あるお寺の掲示板で、こんな言葉に出合いました。
「自動車は前に進むためにあるものである。しかしよく見ると、後ろを見る目を持っている。
宗教心のない人は、バックミラーのない自動車と同じである」
この言葉を読んで『ものの見方』と共に『ものの考え方』についても、
もう一度、自覚と反省をしなければならないと思いました。
なぜならこの私自身が、あの自動車のように、果たして心のバックミラーをもっているかどうかと、
確認しなければならなかったからです。
たとえば、仏さまの眼は、「閉目・開目」とか、あるいは「半眼」と言う言葉で、お経の中に出てきますが、
そんな仏さまの目が半分は閉じられ、半分は開かれていると言うその意味は、
外の物を見る目と心の内側を見る目とのバランスをいつも保っていらっしゃることを、
身を以て私達人間に教えていて下さるからであります。
『人間は目を二つ持つが、舌は一つである。
と言う事はしゃべるより二倍も観察するためである』
と言ったのはイギリスの作家・コルトンであります。
人間生きていく上で
人間生きていく上で無駄なものは何一つありません。
そう聞いただけでも、人間が生きていくという事がどんなに大変な事かわかります。
希望が人間を勇気づけ、悲しみが人間を大きくすると言われても痛みや悲しみを
自分から求めるものはまず居ないでしょう。
だが、人間に生まれた以上楽しみや歓びだけを選り好みして生きるわけにはいきません。
苦楽は糾える(糾える)縄なのだから
楽と苦を抱き合っているようなものです。
当然、多くの苦難に出会うことになります。
その苦難を一つ一つ解決して希望と勇気とに変えていくところに人間として生きてきた
誇りと価値があると言えるのではないでしょうか。
◎ 苦労も困難も無ければ本当の楽しみもない。
◎ 出来不出来。みんな可愛いわが子なり。
◎ 人の心休まるところ、それは家庭である。
◎ 仏を憶って我は生き 仏を忘れて我は迷う。
◎ 待つは長くして過ぎ去れば短き月日なり。
◎ み仏は、衆生の苦悩ある胸にやどりたもう。
◎ 目が覚めたら今日の命にまず感謝しよう。
◎ 喜べば、喜びが喜びを集めて、喜んで来る。
◎ 明るい家庭はいつもニコニコやさしい言葉。
合 掌がっしょう
こまめに働く事を「手足のように動く」と言い、手足ほど私の言う事を聞くものは有りません。
生きたいと思えばすぐに足が動くし取りたいと思えばすぐ手が動きます。
ところが、それほどいう事を聞く手も二つ合わせて合掌する事になると、なかなか思うように行かないようです。
たとえば、ご飯を食べる時を考えてみる。
食卓の前に座ると、右の手は箸を、左の手は茶碗を、思わない前から自然に働きにうつります。
しかし、食べる前に手を合わすことはなかなか出来ません。何度言っても忘れてしまいます。
箸も持たず、茶碗も持たず少しの手間もいらないのに、合掌はなかなか難しいのです。
この難しいなかなか出来ない合掌が出来るのは、仏さまの大きな力の現れとしか思われません。
もし、人間の力で出来る事ならば誰でもやれる筈です。
二つの離れている山を一つ所に近寄せることは、人間の智慧と機械の力で出来る事であります。
離れている二つの山を崩してその中にある池をうずめた飛行場を作ったり運動場を作ったりしている事は
皆知っています。しかし、一番手近で、一番やりやすい右と左の手を一つ所に近寄せて拝むと言う事は、
人間の知恵や機械の力でやれる事では有りません。みんな仏さまのお力であります。
私達は『灯台もと暗し』と言って一番近い所自分の目の前に、仏さまのお力の動いている事を知らずにいます。
もう少し、心して考えてみましょう。そこに感謝の気持ちがわいてきます。
地 獄(じごく)
仏教のお話をしていると、地獄や極楽は本当にあるのですかと、
疑わし気にたずねられることがあります。
そこで、あなたの言われる地獄や極楽はどのようなものを指しておられるのですかと
問い直すことにしています。
そうすると、びっくりして地獄にいろいろあるのですかと言われます。
地獄も色々ありますが、あなたの漠然とした考え方にもいろいろあり、
その両方の場合もあります。考えておられる内容によっては、そういう地獄なら無いでしようとか
それは地獄ではありません、と申すこともあります。
地獄とは漢字の意味から言えば地下の牢獄となります。インドの言葉ではナラーカと言います。
世間的にも奈落の底に堕ちるなどと使います。
意味は苦しみの極まった世界と言う事です。
自分の間違った考え、言葉、行動の当然の責任として現れる結果の状態、また環境の事です。
これは悪い事をしたら地獄へ堕ちますよと言ういましめの喩えだと受け取ってはいけません。
喩えではなく、あなたが地獄へ堕ちるだけの業因、つまりそれだけの行いをしないなら
あなたにとって地獄はないのですから。
<火の車作る大工はなけれども、己がつくりて、己が乗りゆく。>
と言う古歌がそれをよくあらわしてちます。
しかし、自分の事はなかなかわかりにくいものです。
とくに悪いところはわかりません。
だからアミダ様の明るい光に照らされて本当の自分の姿に気付かされた時こそ、
「地獄は一定住かぞかし」と地獄の姿、その恐ろしさが身にしみます。
櫛を拾ったり、鏡が割れたり、四十九日が三月にまたがるために苦しみを受けるのではありません。
地獄へrの人生ではなく、お浄土への方向を正しく向けた日々を過ごすために仏法を聞きましょう。
鷹谷俊昭師著「月々の法話」 探究社刊より
◎ 丸い心こそ仏の心。心安らかな一日を。
◎ 生きています 生かされています この生命。
◎ 命をかけてもと言うものを持つ人は幸せだ。
◎ 美しい花のかげにはかくれた根の力がある。
◎ うばいあうと足りない 分け合うと余る。
◎ 「おかげさま」と言える人生に孤独はない。
◎ 拝まるる仏は 拝む私となりて救いたもう。
◎ 同じ石に二度つまずくのは大きな恥である。
恩 は 石 に き ざ め
ある学校の校門の掲示板に次のような言葉が書かれていました。
”恩は石にきざみ うらみは水に流す”
受けた恩は石にきざみこむように、しっかりと心にきざみつけて忘れないようにして
うけたうらみはあっさりと水に流して忘れてしまおうという意味だと思うが、同じ言葉でも
自分の事となると、かけた情けは何時までも忘れず心にきざみこんで「あの恩知らずが」と
いつまでも恩に着せ、人からうらみをかうようなことをしていても、、さっさと水に流したように忘れてしまうようです。
ちょうど”かけた恩は石にきざみ、受けるうらみは水に流そう”と言うのが私の心の本当の姿のようです。
もっとひどいのになると、”受けたご恩はさっさと水に流して忘れてしまい、受けたうらみはしっかりと心にとどめておいて、
一生かけても仕返ししてやるぞというのが私の心のどこかにあるのではないでしょうか。
親鸞(しんらん)聖人は常にご恩と言う事をのべておられます。
仏さまのお慈悲に対するご恩、仏さまの教えを伝えて下さった尊い方々のご恩
このご恩には、たとえ身を粉にしても報いなければならない。
また、骨を砕くほどに感謝してもしきれないと、如来さまのご恩、善知識のご恩を説いておられます。
また、明治天皇のお歌に「天をうらみ人をとがむる事もなし、わがあやまちを思いかえせば」というのがありますが
私達は、感謝と反省の心をもって、今いちどこの言葉を味わってみたいと思います。
恩は石にきざみ うらみは水に流す