日々の糧と法話




       『言葉は精神の脈拍である。』  亀井勝一郎氏の言葉です。

      言葉を開拓することは精神を開拓することです。

      優しい言葉は相手を快くし 温かい心を呼び起こす

      一日一言  言葉を開拓して こころの脈拍を正したいものです。


    ◎ 今日の不養生が明日の病気をひきおこす 今日の養生が明日の健康を取り戻す。

    ◎ 寒さに震えた者ほど太陽を暖かく感じる 人生の悩みをくぐった者ほど生命の尊さを知る。

    ◎ 涙と共にパンを食べた者でなければ 人生の味は分からない。

    ◎ お金を貯めて自信を得ている人が有る 金が無くなれば崩れる自信である。

    ◎ 合掌して ご飯を頂けないような人は 不幸な人だ。

    ◎ 年の暮れ静かに暮らそう 春が明るく待っている。

    ◎ 思えば生きとし生きるのもは みなこれ 世々の父母姉弟です。

    ◎ たった一言が人の心を暖かくする たった一言が人の心を傷つける。

    ◎ 有難い有り難い 勿体ない 済まない と言う事を忘れている人は一番不幸な人です。


       
  
 
   法話

   太陽や大地や水の恵みを受け

  お米や魚の命を頂き

  生かされて生きている私

   お米や魚を食べると言う事は お米や魚の命を頂くと言うこと。

  ほかの生きものの命を犠牲にして、自分が生かされて生きている。

  その食べ物は太陽や水や空気や大地のおかげで育つことができた。 

  だから、何から何まで宇宙万物一切の恵みを受けた

  そのおかげさまで私は今いかされています。

   しかし、普段はそのことを忘れてしまっている。

  あたえられている命を我がものにして「我が命」を生きていると錯覚している。

  この命は私のものでない、宇宙万物の命なのです。

  そのことに気づき、感謝する気持ちが、南無阿弥陀仏です。


                                                   

   ◎ 目に見えない力を知る人になりたい。

   ◎ 手を合わす心にいます仏さま。

   ◎ 後ろから拝まれるような人になりたい。

   ◎ 仏さまは遠くに居られるのではなく、 私の近くに居て見守って下さっています。

   ◎ 人の幸福を念ずる人にのみ真実の幸福は宿ります。

   ◎ 人間の最も美しい姿は合掌し仏さまを礼拝する姿です。

   ◎ 損得無しで世の為人のために尽くしている人は菩薩さまの様です。

   ◎ 仏さまの様に成る これが、私たちの生きる目標ですが、中々難しいですね。

   ◎ 本当の物に出会うと偽物が分かります。

   ◎ 勿体ない。有り難い。すみません。お蔭さま。ご苦労さま。この五つの心は私の宝です。





   

    [かくれたもの]   

    奇麗な  花のかげには  かくれた根のちからがある。

         気品の高い  人柄の  かげにはかくれた精進の  きびしさがある。


   [終わりを美しく]

   みずからを  染めつくした紅葉のいろどりは

      終わりを美しくと  語っている

  みずからを燃やし尽くした その人のいのちは

     終わりを美しくと  告げている 

             中西智海師  こころの花びら 


                                            


    
      法話   一味 (いちみ)

    
         釈迦のみ法(のり)は唯一つ  一味の雨にぞ似たりける

         三草二木は品々に 花咲き実なるぞあはれなる

           【梁塵秘抄】(りょうじんひしょう)の「一味の雨」の詩です

   三草二木とは小・中・上薬草と小・大樹です。これらは、大小の差は有っても皆慈雨に潤されて育ち

   薬用になるのです。

   このように、仏法は貴賎・男女・大小に関わり無く平等無差別であることを一味(いちみ)と言います。

   それはちょうど海水がすべて同一の塩水であるのにたとえたものです。


   「凡夫も聖者も皆仏さまの願いの海に入ればどの川の水も海に入れば一つの味になるように

     等しく救われる」と言う意味でしょう。 雨は全てを潤す意味で「一味の法の雨」とも言います。

  【正信偈】に「如衆水入海一味」(にょしゅうすいにゅうかいいちみ)とあります。

   そこから 一味同心(心を一つにして味方する)一味徒党(同志の仲間)などの語句が生まれました。

      しかし、悪党の一味などは穏やかでありませんね。           合掌

 
                                                          




    ◎ 空っぽの容器程大きな音を立てる。

    ◎ 助け合わねば生きて行けないお互いが、時には害し合わなければ生きて行けない悲しい現実。

    ◎ 言葉は心の裸ですと言った人が有ります。(言葉は精神の脈拍である)

    ◎ 物は上から下に落ちますが、人間は欲にからまって堕落します。

    ◎ 知識人がすべて善人とは限らない。知識は悪用することも出来るから。

    ◎ よい子も良い先生も過ちを犯します みんな凡夫だよと仏さまが喚んでいます。

    ◎ 善人は悪人を受け入れず悪人は善人を認めない悲しい人間。

    ◎ 時代に追従するだけなら自分を見失ってしまいます。

    ◎ 嫌いな人の言葉は正しい意見であっても 耳に入り難いものです。





      法話

           
仏法を聞くというのは  私自身を聞くことです。

       邪見驕慢の私であったと
 信知することです。


     仏法を聞くというのを、なにかお経の勉強のように思っている人がいますが。

     法を聞くと言う事は、私自身を聞くことです。

      私たちは自分の力で生きていると思っています。 しかし、息をするのも心臓を動かすのも


     自分の力では有りません。  

     私たちは自分の力で生きていると錯覚して生活をしているのです。

     これを、。邪見驕慢(ジャケンキョウマン)と言います。

      ほとけさまの智慧に照らされて初めてこの事に気づくのです。

     凡夫と言う事がわかれば、分かるほど頭が下がっていきます。

     それが、南無と言う事です。

     自分の罪業の深さに気づかされる時、助かりようのない私でしたと信知させられ

     初めて阿弥陀仏の救いをし煮る事が出来るのです。


                                                                                                                                                                                                                                                                   
    ◎  今日の一日は自分の大事な自分の一生の一日です。   

    ◎  身体と心こそ、両親の遺産です。

    ◎  渋柿も 干し柿にになれば美味となります。

    ◎  青梅も 梅干しになれば妙薬のなります。 

    ◎  恵まれすぎて 人生につまづく人もあります。

    ◎  どこも痛くない この当たり前の事が有り難い事なのです。

    ◎  食事は健康のもと 不足しても多すぎてもいけません。

    ◎  一日の喜びは一年の喜び 一年の喜びは生涯の喜びとなります。

    ◎  料理は貴方が作ったとしても 材料はあなたで作れません。

                                                
                                   


 
    

    
 一口法話

     太陽や大地や水の恵みを受け

     お米や魚の命ををいただき

        生かされて生きている私

  私達は何故食べ物を頂くときに両手を合わせて合掌して「イタダキマス」と言うのでしょうか。

  お米や魚を食べると言う事は。お米や魚の命を頂くと言う事。

  ほかの生き物の命を犠牲にして、自分が生かされています。

  その食べ物は、太陽や、水や、空気や、大地のお陰で育つ事が出来ました。

  だから、何から何まで移駐万物一切の恵みを受けましたた,

  
そのおかげさまで私たちは今生かされています。

   しかし、普段は、そのことを忘れてしまっています。

  私達は与えられている命を「我が命」を生きていると錯覚しています。
   
  この命は私のものでは無い。宇宙万物の命なのです。

  その事に気づき感謝する気持ちが南無阿弥陀仏と声になって出て下さるのです。

                         


     
      ちょっといい言葉

       幸運の女神は謙虚さを好みます

       反対に自分を絶対だと信じて人を見下すような人
      
       あるいは他人と自分を比較して

       妬む、そねむ、ひがむ、恨む。憎む。

       といった感情をあらわにする人。

       そういう人からは運は逃げていくのです。

         日本将棋連盟  永世棋聖   米 長 邦 雄



                             





     ◎  今日の一日は自分お一生の中の大事な一日です。

   
    ◎  生かされているこの命は誠に尊いものです。

    
    ◎  渋柿も 干し柿になれば 美味となる。

    
    ◎  恵まれすぎて 人生をつまづく人も有ります。

    
    ◎  健康は最大の幸福 心の満足は最大の富です。

    
    ◎  生かさるる いのち尊し 今日の歓び (信心歓喜)

    
    ◎  限りある人生だからこそ 今日そして今に打ち込む。

    
    ◎  自分には要らなくても それを必要とする誰かがいます。

    
    ◎  料理はあなたが作ったとしても 材料全てをあなたで作れません。


  

         

    法話

    健康のありがたさ
      
     
       あるお寺の掲示板で、私はこんな言葉に出会いました。それは・・・・・


         
『手術場には手を消毒する流しの前に必ず鏡がある。
        
              
               その鏡は、外科医が自分の心を照らしてみるために有る。という。』


    
        「健康な人は自分の健康に気が付かない。びょうにんだけは、健康の蟻型を知っている」と言ったの

   
         イギリスの思想家・トマス・カーライルでありますが、世の中がどんなに変わろうとも、『医は仁術』と言う

    
      
         昔からのことわざの通り、全力をあげて病気と取り組んで下さるお医者さんを、どこまででも

    
         私たちは信頼しなければならないとと思います。

     
         あるお医者さんが、こんな言葉を仰ってくださいました。それは・・・

    

        『寿命は仏さまにお任せし 病気は医者に任せ 看護は家の人にお任せすれば

          
                               あなたは、何の計らいも要らないわけです』


      
         そこに私は、ありがたい仏さまの教えの鏡と、お医者さんご自身の尊い心の鏡を見せて頂きました。

                                           
 
                                     鬼 手 仏 心

       
 

     


    
     目

    めさきのことばかりでなく

        未来を見つめる目を持ちたい

    前ばかりでなく

        うしろを見つめる、目を持ちたい

    自分の事ばかりでなく

        人類を見つめる目を持ちたい

    人間ばかりでなく

        生きとし生けるものを 見つめる目を持ちたい

               こころのはなびら

                 --あなたへ贈る言葉--中西智海著永田文昌堂刊より

                            

                                             

    
     頭 北 面 西 (ずぼくめんざい)

     女子中学校のクラスで「よく信じられている迷信俗信」を調べたところ

   「北枕は縁起が悪い」がベスト10に入っていました。

    「どうして」と聴いたら『死んだもんの姿や』と言う答えでした。

     だから不吉として忌無のでしょう。

   お釈迦さまが入滅の時、沙羅双樹の間に、頭を北にし、右脇を下にして

   両足を重ねて寝られました。したがって、顔は西向いています。

   此処から仏入滅のお姿が『頭北面西』と呼ばれるようになりました。

   その後、仏弟子たちは、 お釈迦さまの故事に従って、

      同じように寝るものとなったようです。

    以来死者を北枕に寝かせる風習が出来、そのため一般には忌まれるようになったのでしょう。

    それはあくまでお釈迦さまにあやかってと言う事です。

    しかし、ある説によれば「頭北面西」は健康的に良い姿だともいわれています。

    また、婚礼の夜新夫婦は北枕に寝る風習のある地方もあるそうです。

    私は、昔から北枕で寝ています。現在85歳ですが元気です。このホームページも

    私がパソコンで書いています。

      あまり気にしない方が良いのではないでしょうか。

       正しい教えに触れれば迷信にこだわることは有りません。


                      

        ◎ 南無阿弥陀仏をとなうれば、あらゆる仏さま方が


             私の周り百重千重囲んで喜んでお護りしていてくださいます。

                               親鸞聖人現世利益和讃  現代語訳

      



    ◎  詐欺に似た宗教は 曇り日に傘を貸し 大雨の時に傘を奪う。

    ◎ 仏の願いは「そのまま」 私の願いは「わがまま」

    ◎ 時として励ましの言葉は刃物となり 癒しの言葉は麻薬となる。

    ◎ 人間は誰でも裁判官 他人は有罪 自分は無罪。

    ◎ 美しい物をうつくしいと思える貴方の心が美しい。

    ◎ 眠れない夜を嘆く者葉多いが 目覚めた後に感謝する者は少ない。

    ◎ 咲いた花を喜ぶ人は多いが 咲かせた根を労う人はない。

    ◎ 止まない雨はない 明けない夜もない。

              心が晴れる40のことば 吉村隆真著  探究社刊 より

           40のことば一つ一つに法話のエッセーが書かれています。  お勧めです。

                                           
    


   私の命は私のものではありません 無尽の縁からの賜りものでした

  私のルーツをたどってみよう。 もちろん、私は父と母 両親から生まれました。

  両親には それぞれ父方の両親・母方の両親がある。私にとって父方も母方も私の「おじいちゃん」「おばあちゃん」です。

  そのように遡って行くと十代 百代の両親が存在します。  そのうちの一人がかけても今の私は存在していません。

   さらに人間の祖先には猿が有り、ネズミが有ります。もっとさかのぼれば、単細胞生物、ウイルスが有る。

 そのような気の遠くなる時間をかけた連綿とした生命のつながりの結果として、今の私が有ります。

  今の私が有るのは数えきれない条件が整った結果なのです。これを無尽(むじん)の縁と言います。

  この縁は無量で、量る事の出来ないものです。

  私のこのいのちは「有り難い・有ることが困難な・有ることが不思議といえる」尊い命です。

  そのことに気づいた言葉が「帰命無量寿如来」「南無不可思議光」「南無阿弥陀仏」です。

  南無阿弥陀仏(なむあみだむつ)は決してお葬式や法事に唱えるまじない、呪文では有りません。

  不思議な命を頂いた喜びの声であり、感謝の声なのです。

 
   ちょっといい話

 以前NHKラジオの「子ども科学科学相談」で小学校1年生の男の子がお父さんとお母さんはどうして男と女なんですか?と言う

 当たり前で難しい質問が有りました。

  先生が「○○君が生まれてきたのは、お父さんとお母さんがいてくれたからだよね?」と言うとその子は「ハイ」と素直に答えて居ました。

 そして先生は植物のおしべとめしべ・動物のオスとメスなどを例えにして人間も動物ですから男と女が有るのですよ。と結論を導いていました。

  司会のアナウンサーが「お父さんは?と聞くと「男です」 「お母さんは?と聞くとこどもは「大好きです」と答えました。

 「お母さん大好き」と答えた子どもさんは、おそらくお母さんの愛情をたっぷり受けて育てられたのでしょう。

  親の愛情が届いているから「大好き」と答えたのです。

 子どもが「お母さん」と呼ぶより先に「私をお母さんと呼んでおくれ、おかあさんがあなたを一生懸命育てるからね」言う呼びかけがあり

 その声が、その心が子どもに届いた時に「お母さん」と素直に呼ぶ事が出来るのです。

 梓みちよさんの「こんにちは赤ちゃん、私がママよ」の歌を歌を思い出します。

                                     




                           
法話

       みょうが (冥加)

     「みょうが」と言う言葉は初めて聞かれるも有ると思いますが、是非覚えてください。

   仏教ではこれは大切なことばとされていますから。

   皆さんのおじいさん・おばあさんは皆ご存じのはずです。

   夏になると家の中が暑いので窓にすだれをかけてある家も有ります。

   あのすだれは外から家の中は見えませんが、家の中から外を見るとよく見えます。

   ちょうど、あのような事がみょうが(冥加)の「みょう」と言う事です。これをかた明かりと言って

   家の中からだけしか見えない状態です。

   如来(仏さま)は、私たちの方からこの眼で見ることは出来ませんが、如来さまの方からはいつも見て居られて

  私達の毎日することをみんな知っておられるのです。ですから悪い事は出来ません。

   私達は人が見ていなければ悪いことをしてもかまわないように思う事も有りますが、

  如来さまいつも見ておられます。そして、困った時でもさみしい時でも、いつも守って居てくださいます。

   それを「みょうが」(冥加)といいます。そして冥加の意味を良く学べば、「ありがたいなぁ「もったいなぁ」と

   手を合わせて感謝の気持ちで合掌の生活をさせて頂きましょう。それはお金や物ではない大きな心の財産となるのです。


 


  
チョットいい話
                                     

      
「おいあくま」
 
    これは、私が大阪青少年教化協議会の事務局の仕事をしているときに聞いたお話です。

  元 南無の会の会長をなさっていて大変長生きをなさった禅宗の素晴らしいお坊さんで松原泰道と言う老師から

  聞かせて頂きました。老師は時々長生きの秘訣を聞かれたそうですが、別にこうと言った方法は有りません。

  老師は大まかな生活の時間表を作ってそれに従って暮らしているだけですとお答えになります。

  それと老師は第二次世界大戦直後、住友銀行の頭取を18年6か月の長きにわたって務められた

  堀田庄三さんが、住友銀行の社員の訓示に常に「おこるな・いばるな・あせるな・くさるな・まけるな」の御項目を

  説き続けられたことです。住友の若い社員たちは堀田さんの訓示を聞くうちにいつとはなしに、御項目の

  頭文字をつらねた愛称で堀田さんを呼ぶようになったそうです。

   堀田イズムと言われたシビアな経営方針の一面にこうしたほほえましい人間形成の標語が生まれた事に

  老師は感銘を受けそれ以来心の杖言葉にされたそうです。

  老師はさらに続けられました。今こそ年齢の如何を問わず、どなたにも心身の健康管理に

 
 【おいあくま】を座右の銘なり杖言葉とされてら如何でしょう

  「おこる」のは健康の大敵、

  「いばる」のは自分の空しさを宣伝するに過ぎません。

  「あせる」のは事故のもとです。

  「くさる」は思い通りに物事が運ばないことから気がめいってふさぎ込む状態ですが

  「まけるな」 


   
食物の腐敗と同じにこころのくさりは自分だけではなく職場なら同僚や部下にも伝染しますから

   くさることはタブーです。

   おいあくまの五項目の最後は「負けるな」です。営業や企業なら同業者に負けてはならないので勝たねばなりません。

  
   自分の欠点や弱点にも勝つ

   
 同時に自分の弱点や欠点にも打ち勝っていけとの示唆の有ることも明らかです。

    老師はさらにいま改めておいあくまを取り上げるのは、現代と言う舞台でその必要性を感じ、

    別の角度から思い立ったからですと述べられていました。

    改めて、お・い・あ・く・まを実行しませんか、そうすれば自分の中の悪魔を善人に換えられると思うのです。



                                                      

    

    ◎ 合掌すると仏も我も二つで一つ

    ◎ 一日の無事感謝して手を合わせ

    ◎ 美しい笑いは家の中の太陽です

    ◎ 思いやりのない、無智な私たちの言葉や行動が、刃物以上の危害を私たちに及ぼす

    ◎ どんな正しい事でも相手の心を傷つけるようでは、せっかくの努力も無になってしまう

    ◎ 恩とは、して貰った事を思い出すことです。お蔭さまの心です。感謝を形に表せば報恩になります

    ◎ 手を合わせてお参りしても、こちらの願いをあちらに聞かすのか、

                  あちらの願いを聞いていくのかは大ちがいです。

                                              
       
 法話

      人間と言う文字は「人の間」と書きます

   人間は確かに人の間にあるのです。大勢の人々と共に生きているのです。其の大勢の人を信じ、

   その人たちに深い愛情を抱いて生きて行かねばならないのに、人間は他人を信ずる事が出来ないばかりか

   自分を信ずることも出来ず、人間不在と言う状態を作り出してしまっているのです。

   そう言う訳で、現代人はともすれば隣人に対して無関心な態度を取り、不作法さえ敢えてします。

   関心を持つときは、誰かに対する憎しみをよりどころとして生きると言った具合です。

   絶えず敵を設定し、敵を意識し、敵意を煽り立てることによって自分たちだけの団結を固めようとする

       生き方をする人があまりにも多いのではないでしょうか。


   ◎ 
現代人は絶えず欲求不満の状態に置かれています。

   
◎ 現代人は浅く広くいろんなことを知って居ます。

   
◎ 現代人は分裂症的な症状を呈しています。

   
◎ 現代人は無気力で、無関心な状態に落ち込んでしまっています。

   ◎ 
現代人には、見せかけの幸福はたくさんあります。

   
しかし、この度のコロナウイルスの蔓延で物質生活の豊富さ、危機感のない事。

   差し迫った問題の無い幸福感に溺れてしまって自分たちだけの幸せを享受することに一杯で

   他人のことなど考える暇もなく自分の本当の幸福や命の厳粛性なども考えてこなかったことが

   もろに崩れました。ここでもう一度振り返ってみましょう。

   生きていると言う事は人間が生きていると言う事です。物質が生きているのでは無いはずです。

   回りくどい言い方になりましたが、物質は生きるための材料に過ぎないのです。

   その物質を手に入れる為に人間は物質を追い回す。そして結局は物質に追い回され振り回されるようになるのです。

   そうならないで、調和のとれた平和な生活を営むためには、人に与える喜びを持つことです。

   手に入れる為には、手から放すことも覚えなければならないのです。

   手に入らぬ間はじっと待つことのできる人間にのみ調和のとれた、穏やかな平和な生活が実現するのです。


   私たちはいつの間にか使い捨て文化に慣れて「
有り難い」「勿体ない」「お蔭さま」と言う事を忘れてしまっていました。

   もう一度手を合わせて「
有り難い」「勿体ない」「お蔭さま」と言う幸せを取り戻しませんか。なむあみだぶつ。

                                              

  あじさいに ういういしい 美しさをおもう

       あじさいに青色青光の 輝きをおもう


  あじさいい みほとけの変化(へんげ)の色彩(いろどり)をおもう

      あじさいに すべてを昇華する 調和(しらべ)をおもう

                       中西智海師  こころのはなびら 永田文昌堂刊より


  ◎ 叱られた恩を忘れず墓参り。

  ◎ 茄子・トマト・胡瓜など、旬のない無季節時代。彼岸を忘れ、盆を忘れ、神仏不信の

                   無季節時代になるのか!


  ◎ 幼児の眼それは仏です。

  ◎ 一期一会 優しい言葉を忘れまい。

  ◎ 自分を生かそうとするならば 他の幸せを考えよう。

  


     
 法 話    

       他 力 本 願 (たりきほんがん)

  「この一敗で地力の優勝の道はぜつぼうですね。あとは他力本願にまかせるしかないですね」

   スポーツ報道でよく聞かれる話です。

 この場合、これからいくら勝ち続けても優勝は出来ない。 相手が負けるのを待つしかない。と言ういみでしょう。

  このように「他力本願」はもっぱら他人の力をあてにする他人任せと言う意味で、いろんな場面で使われています。

  これは大変な誤解です。

 親鸞(しんらん)聖人は著書「教行信証」に「他力と言うは如来の本願力なり」と明らかに示されておられます。

  だから、他力とは他人の力ではなく、仏の力  阿弥陀仏の慈悲のはたらきを言うのです。

 仏さまの生きとし生けるものを救わずにはおれないと言う強い願いのはたらき

 これが「他力本願」なのです。


      浄土真宗のお寺では仏さまのお話を聞く場が開かれています。

   今こそ、親鸞聖人の根本の教えである「他力本願」を正しく理解し聖人のみ教えに生きたいものですね。


                                  
                               南無阿弥陀仏       

    ちょっといい話

  私は、ここ20年程、ほとんど毎月友人の登志雄君の運転でいろいろな所に出かけて綺麗な景色や

 きれいな花の写真を撮りに行って居ました。

  ところが、突然のコロナウイルスの問題で自粛の非常宣言が出てどこにも出かける事が出来なくなりました。

  仕方なく家に籠っていましたが、矢張り何か写真を撮りたいと家の周りを見ていますと、

  庭に雑草が一杯生えています。いつもならすぐに抜いてしまう雑草ですが、

  よく見ると可愛い小さなきれいな花を付けています。










  庭の柿の木にも可愛い実が実って居ました。

今まで遠いところまで、みんなに騒がれている花を求めて出かけていましたが、自分の目の前で

誰にも褒められない、誰にも気づかれないでも精一杯花を咲かせたり実を実らせていてくれることに

気づかさせて頂きました。この写真と自分の気づきをフェースブックに投稿しましたら

 沢山の人からイイネと書いて頂きました。

  チルチル・ミチルが青い鳥を探して色々な所に行きましたが、家に帰ってみると青い鳥がいてた

  と言うお話が有りますが

  今まで気づかなかった所に目を向ける事が出来るようになったことに感謝しています。



 

  桜の花も散り 若葉の季節となりました。

   5月21日は浄土真宗をお開きになった、宗祖親鸞聖人のお誕生の日です。

       浄土真宗ではこの日を宗祖降誕の日と呼んでいます。





  

    私の先輩の中西智海師は、ひと時と言う詩集で【
若葉かおるとき】 と題して次のように書かれています。


      
                                                  
        若葉かおるとき   その人の生れませし   里をおもう

                    
                     若葉かおるとき   その人の生命を支えた   大地をおもう


      若葉かるとき   その人の孤独をつつんだ   野原をおもう

             
                    若葉かおるとき   その人の歩みつづけた   道をおもう



                                                  中西智海



      [生まれかわる]


     人間は  生まれて  更に生まれて 
 

                      生まれ変わらなければ  本当の人間にはなれない


    誕生日は  母の胎内から生まれた日だけではない
  

                      迷いの自分がめざめさせられた  その日のことでもある


                                          
中西智海

   
   法話                                    


           
   布 施 (ふせ)

          お布施と言えば、一般には仏事の時にお坊さんに差し上げるお金のことを言って居るようです。

           お経料と思っている人もいます。

         しかし、布施とは、もともとサンスクリット語「ダーナ」の意訳です。

         布施は菩薩行である六波羅蜜(ろくはらみつ)の第一に挙げられている大変な重要な行いで、

        自分の持ち物を惜しみなく他人に与え共に助け合い喜び会う事を言う言葉です。

        僧侶が仏の道を説くことを「法施(ほうせ)と言い、在家の人が金銭や物品を差し上げるのを

       「財施(ざいせ)」といいます。

        さらに、菩薩が人々を恐怖の念から救う「無為施(むいせ)」を加えて「三施」とよんでいます。


       また、真心と愛情に満ちた態度で相手にせっするのも、乗り物で座席をゆずることも布施といい、


       必ずしもお金や物の事だけではなく、自分にできる「ほどこし」は皆布施だったわけです。


       これを『無財の七施』と、読んでいます。


       ちなみに、スリランカも仏教国ですが、日本に伝わる仏教徒は少し違いますが、自分の大事なものを

  
      施すと死んでから良い所に生まれる事が出来ると言うので、目は非常に大事なものですから目の不自由な方に


     眼の角膜を施すことが、されています。日本の目の不自由な方の角膜移植に使われている角膜も


      スリランカから提供されているものが多いそうです。  有り難い事です。  合掌 南無阿弥陀仏。




 
 ◎ こころのコントローラーをもとう。

  ◎ 有り難い・勿体ない・済まない言う事を忘れている人は一番不幸です。

  ◎ 他人の身になって考えてみませんか。

  ◎ 口あいて落花眺むる子は仏。

  ◎ もまれねば この味は出ぬ新茶かな。

  ◎ 仏のお心は大きな慈悲のお心です。

  ◎ あみだ仏のみ名は悪を転じて徳となす正しい智慧です。


 
    法話
                
 
     
くらべる・くらべない       

 
 
人間はだれでも長所と短所を持っています。しかし、それは自分で自分を見るだけでは中々明らかになりにくいものです。

 特に欠点はそうです。他人から注意されたり、他の立派な人と比べて見なくては分るものでは有りません。

 個人だけではなく、自分の属する組織、例えば家族なども、他の家族の生活を知るまでは善いも悪いも無い

 当たり前のことを普通にしているとしかおもっていません。 自分が生まれ育った地域の習慣も同様です。

 他の地域の異なった習慣を見て初めて自分の所の事が分かるのです。

 日本の事は外国と比べてみるわけです。

 それでは、もう一歩広げて人間の事はどうすれば分かるのでしょうか。

 犬や猫と比べてみると言っても比べられないことの方が多いようです。

 特に、人間共通の欠点を他の動物や植物から気づかされるのはむしろ難しいことです。

  それでは、比べなくても良いのでしょうか。

 欠点は無いのでしょうか。欠点は知らないでもいいのでしょうか。

 そんな事が有るはずが有りません。 もっと良くなるために、もっと幸せになるためにぜひとも必要な事です。

 だからそのような時は、仏さまとくらべてみることです。 仏さまの仰ることに耳を傾け

 心を保ってみることです。

 人生とは人間の生き方ということです。人間としてこの一生をいきぬくために仏さまの仰せに耳を傾け

 心従ってみることです。

 人生とは人間の生き方と言う事です。

 人間として
この一生を生き抜くために阿弥陀仏の尾末を、お慈悲を

 しっかり聞き、味わい、身に着けて日々を過ごしたいものです。

    なむあみだぶつ。



    

      ちょっといい話

           
 渋 茶 一 杯    

  世界のHONDA

 
昭和30年代、本田技研工業はスーパーカブなどの大ヒットを受け、新しい工場を開設する事に成ります。

何処に工場をつくればよいかと、日本全国にいくつかの候補地が上げられ、各地を社長の本田総一郎さん自ら視察に回りました。


 それぞれの候補地にとってみれば、大会社の工場を誘致することで多くのメリットが得られます。

 その為。各自治体とも彼に気に入られようと、用地の説明もそこそこに接待ばかりにひっしになりました。

 そんな中、接待を一切せず、真夏なのにエアコンのスイッチも入れずに彼を出迎えた自治体が有りました。

 それが鈴鹿市です。

 当時の市長は渋茶を一杯出しただけで、お茶菓子すら提供しませんでした。

 サービスした事と言えば、汗をかいた彼に対して何度もお絞りを提供したくらい。

 その代わりあらあk締め本多技研が送った質問には懇切丁寧に回答して見せます。

 差sらに現場では市の職員が土地の広さが分かりやすいようにと炎天の中旗を持って立っていたのです。

 これが決定打となり工場が鈴鹿市に建設されることになり、本田技研鈴鹿製作所が建設されました。

 市は鈴鹿製作所の完成に当たり、師の名前を「本田市」にすることを彼にていあんします。

 しかし、「彼は伝統ある地名を個人名に変えるなんてとんでもない」と丁寧に断ったそうです。



          さすが世界の本田さんですね。
 







      花 ひらくとき  季節のこころが  感じられる

                花 ひらくとき  自然のめぐみが  感じられる

     花 ひらくとき  生命の不思議さが 感じられる

                花  ひらくとき  誕生仏の導きが  感じられる


     ◎ ひとの幸せを念ずる人にのみ 真実の幸福は宿る。

      ◎  富める人は有るものに執着し 貧しい人は足りないことに苦しむ。

      ◎  他と共に生きることが 自らを生かす道。

      ◎  先に生くるものは 後を導き 日に生るる者は 先を訪ねよ。

      ◎  やわらかいマリは 固い鉄球より高く跳ねる。

      ◎  人間の本当の強さは自己の弱さを知る底から出てくる。

  

   法話

         有 り 難 い
 (文字通り有ることが難しい)          

    「ありがとう」は、一般に感謝や、お礼の心を表す日常語として常識になっています。

 
 生物の先生に「現在この地球上に多くの生命が生まれているが、一番多いのは何ですか」と聞いたところ

 バクテリアやウィルスなどのミクロの世界の生物、微生物が多いそうです。

  グラウンドに来「この一杯の砂が地球上の生命の数だとしたら、人間の数は?」と、問うと

 一握りの砂だと襲えらました。

 これでは人間に生まれる可能性は皆無でしょう。三千億分の一だと言う人もいます。

  三帰依文に「人身受け難し 今すでに受く 仏法聞き難し 今すでに聞く」とあるように

 人間として生まれることや、仏の教えに遇うことは中々難しく、「有り難い」事なのです。

  「有り難い」は文字通り有るのが困難、めったにない。珍しい事と言う意味です。

  だからこそ、貴重である、かたじけない。もったいない、畏れ多いと言う感謝の気持ちを表す言葉になりました。

 どんな時でも、だれに対しても素直に「ありがとう」と言えるようになりたいものです。

  
私達浄土真宗ではあみだ様に対して感謝の気持ちを表すのに「なむあみだぶつ」と、お唱えします。





チョット面白い大阪の言葉

                 
勉強する ・・・「値引きする」

  ふつうは勉強は勉学に励むですが、大阪では「値引きする」ことを70代以上の人は普通に「勉強しといてえなぁ」と

 言います。

 お店の人がお客さんに「どないですか?勉強させてもらいますよ」ということもあれば、お客さんが「これ気にいってんねんけど、

 この値段では手が出えへんわ。ちょっと勉強してえなぁ」と言う事も有る。

 この「勉強」は「努力する」「知恵を絞る」と言った意味。

  定価はこの値段ですがお客様のために努力してより安い値段で提供っ出来るように知恵を絞ります。…「勉強しまっせ」には

 そんな意味がこもっているのです。

    この言葉は客側にとっても便利な言葉です。」「安くしてえなぁ」ではストレートすぎて流石に言いにくい。

 その点「勉強してえなぁ」は口にしやすい言葉なのです。

  大阪人は日本で最も値切るのが好きな人々と言うイメージがあるが、それには、この「勉強する」と言う

使いやすいフレーズが関係しているのかもしれないです。

            博学こだわり倶楽部【編】より

  ちなみに大阪人はいかに安く買ったかを自慢のために「これなんぼやったと思う」と言う事をよく言います。

  最近は個人商店がどんどん無くなって町のコミュニケーションが薄くなりこの言葉も自然に消えるのでしょうね。




 ◎  当たり前のことを、有りがたく喜べる人は最高の幸福者です。

 ◎ 人の幸福を念ずる人にのみ、本当の幸福は宿る。

 ◎ 正しい姿勢になろうとしたとき、自分の体のゆがんでいるくせが良くわかる。

 ◎ なんにでも。誰にでもクレームを付ける人は、得られるものは少ない。

 ◎ 科学の発達によって得られる有難いものと、恐ろしいものがあります。

 ◎ 有難い。勿体ない。済まない。と言う事を忘れている人は一番不幸者です。

 ◎ 先に生るるものは、後を導き 後に生るる者は先を訪ねよ。

 ◎ 信心とは神仏をあてにすることではありません。あてにするような自分勝手の心を反省するのが信心です。





      法話  地獄ってどこにあるの?

    ある御門徒さん宅にお参りに伺った時のお話です。

   「御院主さん。最近私スポーツジムに通ってるんですよ」

   「おー凄いですね。おばあちゃん何歳になりましたかね?」

   「私は八十ちょっとですよ」

   「その歳で水泳って・・・昔からなさってたのですか?」

   「いや、テレビで見てて楽しそうだったからですよ

   「ほー」「それで、だいぶんおよげるようになったんですよ」

   「何か大会とかには出場しないんですか?」

   「いやいや皆さん速いですから」

   「ダイエットとか健康のためなの?」

   「いやいや違いますよ」「・・・・」「実は、こないだテレビで見たもので」「何を?」

   「川を渡る」「えっ」

   「死んだら川を渡らなければいけないでしょう。ちょっとでもスムーズに渡れたらと思いまして」

   「はっはっはっなるほどね」「でもおばあちゃん。なんぼ泳ぎが得意でも、シャバとは違うから三途の川は

   心がきれいでなかったら渡れないのよ。沈んで地獄行きになるよ。」「あらそうなの。ビックリ」

   「これからは、また元気よくお寺のお参りしてね」「はーい」

    皆さん、地獄はこの世にあるのです。自分の居場所が奪われたり、無くしてしまったりとか、

   許されてずーっといたくなるような、居心地の良い空間とか時間がもてなくなったりする。

   また心から共に喜んだり悲しんだりする気持ちを持てる人が誰一人いなくなったりする。

    そんな地獄を造っていまうような、あなたになりませんように。


    
真宗教団連合香川県支部  テレホン法話より。

  
この講話は電話で聞く事が出来ます。0120−242190 (無料通話)

      毎週月曜日に講師の先生が変わって新しいお話が聞く事が出来ます。是非お聞きください。


   
ちょっといい話

                   赤い靴の女の子

  童謡「赤い靴」この歌に出てくるおんなのこには実はモデルがいます。

その子の名前は岩崎きみといいました。3歳の時に生活の厳しさからアメリカ人宣教師に預けられ。

6歳でその宣教師とも離れ離れになったきみちゃんは現在の東京麻布十番にある孤児院で一人病と闘います。

 しかし、彼女は9歳にしてその生涯を閉じてしまいました。

 1989年2月28日、きみちゃんの安らかな眠りへの祈りと私達が幸せに暮らせることへの感謝の気持ちを込めて

麻布商店街にきみちゃんの銅像が建てられました。

そして、その日の夕方、ちょっとした出来事が有りました。

それは、きみちゃんの銅像の足元に小銭が置かれていたことです。

その金額は、ほんの18円で、決してたいきんとはいえませんし、どんな理由で置かれたのかもわかりません。

しかし、商店街の人たちはこれをきっかけに、チャリティを始めようと思い立ったのです。

それから、20年の月日が流れ、チャリティの成果は阪神大震災義援金70万円、スマトラ大震災と津波の

義援金60万円など、その総額は1000万円を超えたと言います。

きみちゃんは、不幸にも短くして生涯を終えましたが、このチャリティを通してきみちゃんと同じような不幸な

境遇のこどもが、沢山救われています。


 
 ◎ 嘘聞いて喜んで、本当聞いてはら建てた。

 ◎ 繰り返しの日々が本当は幸せなのだ。

 ◎ させて頂ける。自分の身を喜ぼう。

 ◎ 手を合わせ心をあわせて幸せに。

 ◎ 我も人他の人も人同じ人。

 ◎ 生かされて生きる命を大切に。

 ◎ 親と子が共に合掌仏前に。

 ◎ 称名の声に浸れば浄土なり。

 ◎ 小さな幸せを大きく喜ぶ。

 ◎ 当たり前の中から見つけた有難いものこそ本当の宝である。



         法話 お寺の宝

                                                

    町に有る建物は、皆それそれの目的を持っています。

   銀行・病院・学校・デパートそれぞれ目的が有って建てられています。

    それではお寺はどういう目的を持っているのでしょうか。

   お葬式や法事をするところでしょうか。

   お寺と言えば死んだ人に関係のある所と思っている人が多くいます。

   お葬式も法事もしますが、
おめでたい結婚式もお誕生祝のお勤めもするのです。

   でも真宗のお寺の一番の目的は、みんなが、仏さまの教えを聞くために集まる場所ということなのです。

   昔は「道場」と言っていたそうです。人々が寄り集まってほとけさまにおまいりをし、その教えを聞いて

   お互いに話し合いをする場所なのです。

   お寺には金庫も倉庫も有りませんが、宝が一杯あるのです。

   私たちはその宝をいくらもらって帰ってもいいのです。

  その宝と言うのは仏さまの教えから頂く智慧です。

   お寺に来てお話を聞く人は宝をもらって帰る人です。この宝をもらうと今まで気づかなかったことに気づいたり

   思い違いをしていたことが分かったりします。

   小学校や中学校は「頭の学校」です。野球のクラブやスイミングスクールは「体の学校」です。

    そして、お寺は、仏さまの智慧と言う宝物を頂く「心の学校」です。


   ちょっといい話

  前回、大正13年生れの95歳で現役の提灯屋さんの山下さんのお話を書きましたが、

  今年のお正月に住所とお店の名前は印刷ですが、あとは山下さんの自筆のお年賀状を頂きました。





: 早速、山下さんのお店にお礼に伺いますと、山下さんが元気な声で「昨年は有難うございました」と

 先にお礼を言われました。それから経済の話政治の話などいろいろご意見を聞かせて頂きました。

 流石人生の大先輩のお話にはいろいろ勉強になることが一杯ありました。

 経済効果、経済効果と言いながら人の心が皆利己主義になって居るというようなことも仰ってました

   これからもお元気でお仕事を続けて行かれるようにお願いして帰ってきました。:  

                                    






 ◎ 悪魔となり菩薩となるも心の持ちよう。縁が来れば心の持ちようも変わる。お粗末な私。

 ◎ ありがとう。言われるように、言うように。

 ◎ いそしみ励むものは。常に楽しく安らかである。

 ◎ 美しい花が咲いた。かくれた根のおかげです。

 ◎元旦を迎えた喜びは、まず先祖への感謝から。

 ◎ お金の亡者は、たまればたまるほど汚くなる。

 ◎ 暮らしに光を求めて、自らの行動をつつしむ

 ◎ 人生に定年はない。古希も八十寿も民現役。

 ◎ お陰さまの心で照らせ明るい社会。




          微笑みを

  お正月が来ました。

 いくつになってもお正月は心楽しいものです。お正月と言いますと誰でもにこにこ顔を思います。

 お正月と微笑みは親戚です。欧米人の幼児期のしつけは、プリーズ(どうぞ)とサンキュー(ありがとう)

 その次はスマイル(ニコニコ顔)だそうです。

 スマイルは作り笑い打の照れ隠しのわらいではありません。にこやかなーーー

 これら三つは社会生活の潤滑油として重大な意味を持ちましょう。

 第一微笑みは元手がいらず相手を喜ばせます.和やかな顔

 仏教ではもとでいらずのお布施「和顔悦色施」と言って無財の七施の一つです。

 美しい人はなおさら美しく見えますし、にこにこして変な顔になる人はいません。

 だれにでもにこにこと和やかにお話ししましょう。そして良き年を、よき人生を作っていきましょう。

    笑う門には福来るーーー「和顔悦色施」です。

                     光明院 小川清雄師 法話より


                                             

  
ちょっといい話

  私のお寺は大阪市西成区天下茶屋地区と言う所にあります。

大阪は千三百年以上前に西成と東成の二つに分けられました。千三百年の伝統と文化を受け継いできた

この西成の名前が残っているのが、大阪では今私の住んでいるこの西成区だけです。

 先日この西成区で素晴らしい人に出会いましたので、ご紹介させて頂きます。

 私のお寺に斜めに倒れ掛かった木が二本有りました。最近の台風は異常ですので防災の為に

伐採することにしました。

元気な木を切るのですから感謝の気持ちも込めてこの木に「一切衆生悉有仏性・山川草木悉皆成仏」と書いた

プレートを貼ることにしましたが、急なためネットでは間に合わず。もうすでに閉店されているだろうと思いながらも

昔お世話になった提灯屋さんの山下さんに電話をしてみました。

「まだやってまっせ」と言う元気な返事が返ってきましたので、お願いに行きました。



お店に行くと提灯が一杯ぶら下がっていました。『堺北警察署防犯』とかお寺の提灯・お宮さんお提灯

それに飲み屋の提灯もぶら下がっていました。



 お店には色紙に八十八歳生涯現役と書いたものが有りましたので、お歳を聞いてみましたら、

山下さんは大正13年生まれの95歳です。早速お願いをしましたらメガネも掛けずに

プラスチックの板に二本の線を引くとスラスラと雨にぬれても大丈夫なようにラッカーのようなもので書いて頂きました。

字の大きさ、字の間隔見事に出来上がりました。

私の住む西成区には素晴らしい力を持った方がおられると感動して写真を撮らせて頂きました。

とても95歳の高齢とは思えないお姿でした。

            


因みに東京タワーの電波塔の提案した産経新聞の創業者の前田久吉さんも天下茶屋のお生まれで地域で新聞を始められました。

私はこのような素晴らしい西成区天下茶屋に住んでいることを喜んでいます。




   
有り難い【ありがたい】
   
 {ありがとう」は、一般に感謝やお礼の心を表す日常語として常識になって居ます。

 生物の先生に「現在、この地球上には多くの生命が生まれているが、一番おぽいにはなんですか」と

 聞いたところ、バクテリアやウイルスなどのミクロの世界の生物、、微生物が多いそうです。

 グラウンドへ行き「この一杯の砂が地球上の生命の数だとしたら人間の数は」と問うと

 一握りの砂だと教えられました。

 これでは人間に生まれる可能性は皆無でしょう。三千億分の一だと言う人もいます。

 三帰依文(さんきえもん)に「人身受け難し、今すでに受く、仏法聞き難し今すでに聞く」とあるように、

 人間として生まれることや、仏の教えに遇う事は中々難しく「有り難い」事なのです。

 「有り難いは」文字通り、有るのが困難、めったにない、珍しいという意味です。

  だからこそ、貴重である、かたじけない、もったいない。畏れ多いという感謝の気持ちを表す

 言葉になりました。 どんな時でも、だれに対してでもすなおに「ありがとう」と言える様になりたいものです。

   くらしの仏教語豆辞典 辻本敬順師著  本願寺出版社刊より。

                                                 


 
 ちょっといい話

      心豊かなお嬢さん。

   長野県の成澤さんと言う高齢者のお話です。

 東京でのことです。すっかり様変わりした町の様そうに戸惑い。探しても見当たらない番地に困り

 道行く人に尋ねてもただ一様に首を振るばかり。

 もう一人の方に聞いてもし駄目だったらあきらめようと、通りすがりの若い女性に声をかけた。

 すると、「ワタシ外国の人です。この近所にはすんでいますが、おやくにたてずスミマセン。

 しかし、この先に住宅の看板がアリマス。そこへご案内しましょう。わかるかもしれません」と、

 あまり上手とは言えない日本語ながら、親切にも案内図のある場所まで同道してくれた。


 そのうえ、やっと捜した地図上の通りまで案内してくれたのです。

  慣れない外国の地で生活にも何かと不便な事が多いはずなのに、当然のように振舞ってくれた

  心からの親切。

 物の豊かさにかまけ、日本人に欠けてきていると言われる日常の思いやりを、

 外国の方の発見した喜びと恥ずかしさ、ただただ感謝の一日でした。

            地井さん親切運動に投稿された文章です。
   
  


     今回の日々の糧、法語は私の大学同期生の豊島学由師の喜怒哀楽の声と言う本から頂きました。


  ◎ 叱るつもりが怒っている親御さん。子どもさんにはそれがわかるのです。

  ◎ 念仏者には日常生活そのままが、仏道実践の道場になっていく。

  ◎ 親の思うままにならぬ子あり。この言うままにしてくれぬ親あり。

  ◎ 広いお庭はないけれど、笑ったり泣いたりできる家庭がある。

  ◎ 見えぬまで後ろ姿を見送ってくださる、行き届いたあったかいおもてなし。

  ◎ 当たり前の中から有り難いものを発見した喜びこそ宝物。

  ◎ あなたもあの純粋な産声を上げたのよ、みんな同じ重さの命なのです。

  ◎ 命はすべて平等です。仏さまの願いのかかったいのちです。

  ◎ 旅行から我が家に戻ってホッとする、やはり油断の出来る場所が一番落ち着く。

  ◎ 生き物をただ栄養剤とみなさずに、命に合掌して感謝して頂こう。

                     
この本は西本願寺の本願寺出版社から発行されています。




 
       やわらかな心
 
 相田みつをさんの言葉を引用して

  セトモノとセトモノとぶっつかりこすると すぐこわれちゃう。どっちかがやわらければ大丈夫やわらかい心をもちましょう。

 ある方が仰ってました「血がごろ歯が悪くなって歯医者さんに通っているのですが、固いはずの歯がポロリと欠け落ち、

やわらかい舌が、いつまでもペラペラと大丈夫である「と

 ところで、おしゃかだまはいつも「身も心もやわらかく・・・・・」と言う事を教えて下さいました。

そのやわらかさの代表が太陽の光であり空気であり水であるように思います。

 どれもみんな、私達人間が生きるために大切なものばかりです。

そして、どれもみんな人間の作ったものではありません。

 たとえば、その中の水が、又一番強い力を持っていることは不思議にさえ感じます。

現代の念仏者として慕われ、九十余歳で亡くなられた教育家の甲斐和里子先生は

   『岩もあり木の根も有れどさらさらと、たださらさらと水の流るる』と詠まれました。


  
 ちょっといい話                 

 
滋賀県の 吉武さんと言う方が書いておられました。

  数年前母と一緒に里帰りのために、京都から博多行きの新幹線に乗った時の話です。

推定180%混みあった車中で立っていると夏の暑さも手伝ってボーッとしてきます。

  せめて母だけでも座れたら・・・・と思っていると、まだ30歳前くらいのスーツ姿のサラリーマンタイプのかたが、

「ぼく「僕、次で降りますから、どうぞ」

と席を譲って下さったのです。未だ新大阪を出たばかりの時だったと思います。

  「有難うございます」母は大変喜んでいました。

やがて、博多へ到着。「本当に良い人やったなぁ」と僕は言いながらホームへ降りました。

  そして、ふと左の方を見ると、あのサラリーマンタイプの方がおられるではありませんか。

本当に頭の下がるおもいでした。と同時に、「こんな素敵な社会人になるぞ」と決心したのでありました。

 と言う事でした小さな親切が大きな幸せを与えます。


                                                  

 ◎ 仏さまが見ていらっしゃる。人は騙せても神仏はだませない。

 ◎ 仏心の無い家庭から欲と知識だけの悪魔がでる。

 ◎ み仏のみ名を唱うる我が声は、我が声んがらとうとかりける。

 ◎ 仏さまは私達のすべてを知っておられる。

 ◎ 神仏を敬う、祖先を崇める、老をとうとぶ、まことに立派な人である。

 ◎ 苦しみの中で学んだことは、その人の生涯の助ける力になる。

 ◎ 牛の飲む水は乳となり、マムシの飲む水は毒となる。物は皆使いようによって良くも悪くもなる。

 ◎ 朝は合掌、昼は汗、夜は感謝で眠りましょう。

 ◎ 相手の身になって考えてみよう。

 ◎ 自分の嬉しさや悲しさを本当に知っている者は自分と仏さまのほかにない。

   

   
お月さまと仏さま

   ある所に、西瓜泥棒がいた。

  子どもを連れて西瓜畑にやって来た。あたりに人影のを無いのを確かめて父親は子どもに言った。

 「ええか、誰か人が来たらすぐに知らせるんやで」そう言ううと父親は西瓜畑の中に入っていった。

 沢山なっている西瓜を一つ一つポンポンとたたきながら一番美味しそうなのをよっていた。

  すると、突然大きな声で「お父ちゃん見たはるで!!」と、子どもがどなった。

 父親の西瓜泥棒はびっくりして「どこやどこや!!誰や」と、あわてて聞いた。

  すると、子どもは空を指さして「あそこや、お月さまや」と言った。父親が空を見上げると、綺麗なまん丸いお月さまが、

 いつの間にか雲の間から顔を出してここうと輝いていた。「お月さまが見てる」子どもは又云った。

  父親は「なんや月か」と言いながらも、じっとお月さまを見つめていたが、やがて「すみません」と言うと
 
 両手を合わせてお月さまを拝んだ。


  きれいな月の光を見つめているうちに自分の心が洗われて行く気がして、自分が今やろうとしていることが、
 
 恥ずかしくなって来て西瓜を盗むことをやめて、子どもを連れて帰っていった。

  私たちは、ともすれば人が見ていればよい事はするが、人が見ていないと良いことをしない。

 それどころか、人が見ていないと悪いことを平気でしがちである。

   今、西瓜泥棒親子の話ではないが、誰も見ていないが、お月さまが見ている。

 このお月さまの光で泥棒の心が洗われたことを思う時、このお月さまを仏さまと振り替えてみると、

 私達が煩悩に眼さえられて見る事が出来ないけれど、仏さまやご先祖さまは常に私たちを見守って下さっているのだ。

 この気持ちが持てた時、私たちの心が洗われていくのである。


  
ちょっといいはなし
 
 10月5日は落語家林家染太さんのお誕生日です。              

 染田さんは西宝寺にも来て頂いたことが有りますが、フェースブックでお友達でもあります。

先日、お誕生日のお祝いのメッセージを送りましたら、お礼のメッセージが来ました。

染田さんは、愛媛県のご出身で、関西大学卒業後四代目林家染丸師匠に入門されて、

現在天満繁盛亭を中心に全国各地の落語会、テレビ、ラジオでも活躍中。

また、若手落語家コンクールでは見事初代グランドチャンピオンにも成られた方で、古典落語から創作落語まで

こなすハイブリッドな方で、英語、フランス語、スペイン語落語得意として、イギリス・フランスなどでも公演されています。

そんな林家染太さんですが、実は、中学校時代に壮絶ないじめに遭い、自殺の一歩手前まで追い込まれた

つらい経験を持たれたのですが、そんな中勇気を振り絞って先生と両親に打ち明けたところ、周りの大人たちが

全力で守り励まし続けてくれたそうで、この経験から「苦しくても絶対死んでは駄目と」と言うメッセージ、そして

人と人とのつながりの大切さや周囲とコミュニケーションをとる方法など伝えるべく講演活動をしているのだそうです。

講演では【いじめられっ子の僕が落語家になった理由】などと話されて大人に向けてはいじめられている子どものSOSサインに

気づく大切さなども話されています.明るい非常に楽しい落語家さんです。

 

お誕生メッセージ本当にありがとうございます。



沢山のお誕生日メッセージを、本当にありがとうございます。

心よりお礼申し上げます。

お一人、お一人のお宅にお邪魔いたしまして、




お礼を申し上げたいのですが、本当にお邪魔致しますと、それも困ると思いますので、こちらの文章にてお礼に代えさせて戴きます。

今日で44歳になりました。

お礼を申し上げたいのですが、本当にお邪魔致しますと、それも困ると思いますので、こちらの文章にてお礼に代えさせて戴きます。


今日で44歳になりました。

まずは、元気に生んで、育ててくれた両親に、心から感謝致します。

昔、両親に

「あなたには遺産は残しません。

その代わり、色んな知識や、豊かな感性を残しておきます。

お金は他人に取られるかもしれないけど、あなたの頭の中にある知識や感性は、一生、取られることは有りません。

それで世の中を生きて行きなさい」と言われたことがございます。


本当に有りがたいですね。

そのお陰で、今も生き延びております。

これからは、少しでも親孝行の真似事の出来るよう、努力して参ります。

うちの師匠にも、心から感謝致します。

こんなアホな僕を弟子にとって頂き、育てて貰って、噺家にしてくれました。


師匠から頂いた【金言格言】は、手帳に書いていて、いつも読み返して、僕の生きて行く糧となっております。

本当にありがとうございます。

また、芸界の師匠方々、先輩、後輩、お客様、今まで関わって頂いた全ての方々にも、心より感謝申し上げます。

本当に色々、面倒を見てもらい、可愛がって頂き、本当にありがとうございます。


これからは、皆さんに少しでも恩返しができるように、一生懸命、地道に、誠意を持って、芸道に精進して参りたいと思います。

これからも、林家染太を、何卒、宜しくお願い致します。


令和元年10月5日

            林家染太    (原文のまま)